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2017年8月27日 (日)

京都御苑歴史散歩5 蛤御門の変

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

京都御苑にある歴史的由緒のある場所の散策も今日が最後です。幕末に起こった「蛤御門の変」は、当時の政治的な大事件であっただけでなく、京都にとっては応仁の乱以来の市街で行われた戦争でした。(今日の舞台は御苑の西と南です。)

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幕末の長州藩は急進的な尊皇攘夷論を掲げて京都の政局を主導していました。ところが、1863年に公武合体派であった会津藩と薩摩藩らの主導による八月十八日の政変が起こり、長州藩兵は堺町御門の警備の任を解かれ京都を追放されます。(京都御所の清所門)

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さらに、藩主の毛利敬親と子の定広は謹慎を命じられ、政治的な主導権を失いました。急進的な攘夷論は後退するも、攘夷を主張する朝廷は1864年幕府と横浜港の鎖港に合意。早期の鎖港を求めて水戸藩の尊攘派が天狗党の乱を起こしました。(御所の建礼門)

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長州藩内ても、来島又兵衛、真木保臣らは京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴ようと主張(進発論)しますが藩は慎重論が優勢でした。視察の名目で京都に入った来島は、会津藩主・松平容保への襲撃を企てましたが、警備が厳重で断念しました。

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松平容保は京都守護職にあり、後の有栖川宮邸跡(上)から凝華洞(ぎょうがどう)跡(下)にかけて仮宿舎がありました。そして、6月5日、池田屋事件で新選組に藩士を殺された知らせが長州にもたらされると、藩は一気に進発論に傾いていきました。

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積極派は挙兵を決意し、益田親施、久坂玄瑞らは山崎天王山に、国司親相、来島らは天龍寺に、福原元僴は伏見長州屋敷に兵を集めて構えました。そして、朝廷への陳情を開始するも、朝廷は拒否して長州藩への追討令が出されかねない形勢に陥ります。

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19日未明に3隊は行動を起こし、戦いは伏見方面で始まりました。筋違橋で長州藩の福原越後が率いる一隊と幕府方の大垣藩が激突し、長州勢はたちまち壊滅してしまいました。幕府軍 は伏見方面を長州軍の主力とみなし、守備力をこの方面に集中させていました。

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一方、天竜寺に布陣していた国司信濃の一隊は、途中で妨害を受けることなく京都の街への侵入に成功し、御所に迫ります。国司は軍勢を三手に分け、中立売御門、蛤御門、下立売御門を攻め始めました。(上と下は最初に戦闘が起こった中立売御門)

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中立売御門を守っていたのは、黒田藩と一橋兵でしたが、黒田藩は始めから戦意が無くすぐに退却、一橋兵も弱兵で知られておりこれも一条通の方へ退却してしまいます。国司は門の扉を開き、門内へと突入し、御所の唐門の前に出ます。御所の宜秋門(唐門)

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唐門を守っていたのは会津兵でしたが、国司軍は巧みに戦い会津兵は次第に押され始めました。このころ、松平容保は建礼門から参内しますが、重病で指揮をとれません。そこで、禁裏御守衛総督の一橋慶喜が会津兵と一橋兵の両方の指揮をとりました。

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このとき、蛤御門に来島又兵衛が率いる一隊が攻め掛かりました。この門を守っていたのは会津藩でしたが、来島軍の勢いは凄まじく会津藩兵を蹴散らして門の内部へ突入しました。(上と下は蛤御門で、門柱に銃弾の跡が残っています。)

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扉にも弾の跡。

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同じ頃下立売御門でも突入に成功して戦況は長州藩が優勢となり、守備側は会津兵や一橋兵の間で同士討ちが行われるくらいに混乱しました。(下立売御門、向かいには菅原院天満宮神社。)

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下立売御門にも銃弾の跡があります。

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蛤御門を突破した来島又兵衛は鬼のように暴れまくり、天皇の御座所を目指して更に兵を進めます。向こうに清水谷家の大椋が見えます。

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この戦況を変えたのが西郷隆盛が率いる薩摩兵でした。西郷は錦小路の藩邸から天竜寺に向かう途中、御所の方面で砲声を聞き、急ぎ駆けつけました。中立売御門の北にある乾御門から中に突入しました。

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西郷は蛤御門に駆けつけ長州兵に立ち向かい、崩れ立つ一橋兵や会津兵を叱咤激励します。長州兵は新たに出現した敵を迎え撃ちますが、次第に疲れが見え始めました。

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その中でも来島又兵衛は奮戦を続け、鉄砲隊を集めて西郷隆盛を狙撃し負傷、落馬させました。西郷は、長州兵の先頭に立ち暴れまくる来島又兵衛に対して、小銃隊に狙撃を命じ、これを打ち取りました。

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手ごわい薩摩兵に攻撃され、来島を失なった長州兵は総崩れとなり、敗走を開始します。

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蛤御門から長州兵が敗走した直後に、山崎から出発した益田右衛門介の率いる部隊が堺町御門に到着しました。しかしながら、この頃には幕府軍は御所に終結して大軍となっており、益田軍は勝ち目がなく、門の東にあった鷹司邸に潜り込みました。

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部隊に居た久坂玄瑞は、前太政大臣鷹司政通に嘆願し、天皇に拝謁するために御所へ参内する供に加えるよう訴えますが、政通は拒否しました。久坂玄瑞はもはやこれまでと、松下村塾の同窓の寺島忠三郎と差し違えて絶命しました。

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幕府軍の指揮官・一橋慶喜は、鷹司邸を焼き払うように命じます。さらに長州藩邸にも火がつけられ、2か所から起こった炎は3日間にわたって燃え続け、天明の大火に次ぐ被害をもたらしました。

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コメント

猫じゃらしも出てきましたか。
草もあきになってきたようですね。

投稿: munixyu | 2017年8月27日 (日) 09:34

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