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2017年8月 8日 (火)

西本願寺 その歴史と両堂

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

東本願寺の渉成園から始まった散策の最後は西本願寺です。東西の本願寺が分立するまでの歴史は同じはずですが、それぞれから見ると少し違うかも知れません。

「本願寺」は浄土真宗本願寺派の本山で、その所在地から「西本願寺」ともいわれます。下は「御影堂門」(重文)。親鸞聖人600回、700回、750回大遠忌に修復工事がされ、屋根工事で再使用する旧瓦が南面にまとめられています。

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親鸞聖人が弘長2年(1263)に90歳で亡くなると、東山の鳥辺野(とりべの)の北、大谷に石塔が建てられ、遺骨がおさめられました。しかしながら、その墓所はきわめて簡素なものでした。門の向こうは江戸後期建造の「目隠塀」(重文)。

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10年後の文永9年(1272)、晩年の聖人の身辺の世話をした末娘の覚信尼(かくしんに)や、門弟達は吉水の北に六角の廟堂を建て、親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移しました。 これが大谷廟堂です。「御影堂」(重文)は寛永13年(1636)再建。

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この大谷廟堂は、敷地を寄進した覚信尼が廟堂の守護をする留守職(るすしき)につき、以後その子孫が門弟の了承を得て就任することにになりました。

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大谷廟堂の留守職の第3代には覚信尼の孫の覚如(かくにょ)上人が就任し、元亨元年(1321)ころに本願寺と公称しました。そして、覚如上人の晩年から次の善如(ぜんにょ)上人にかけて、堂内の親鸞聖人の影像の横に本尊の阿弥陀仏像を安置しました。「大銀杏」

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第7代の存如(ぞんにょ)上人のとき、北に5間四面の御影堂、南に3間四面の阿弥陀堂を並置して建て、それぞれに親鸞聖人の影像と阿弥陀仏を安置しました。(手水舎は重文、右にお茶所があります。)

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室町時代中頃の第8代蓮如上人は、教えをだれにでも分かるようにやさしく説き、本尊を統一したり、「御文章(ごぶんしょう)」を著して積極的な伝道を展開し、教えは急速に近江をはじめとする近畿地方や東海、北陸に広まり、本願寺は興隆しました。

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「経蔵」(重文) 納められている『大蔵経(一切経)』は天海僧正の開版で、寛永12年(1635)江戸の寛永寺で発起し、12年をかけて完成しまし た。天海版または寛永版とも呼ばれます。幕府の要請と第13代良如宗主の希望により銀27貫目で購入しました。

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上人の布教は比叡山を刺激し、寛正6年(1465)比叡山衆徒によって大谷本願寺は破却されました。聖人は難を避けて近江を転々とし、親鸞聖人像を大津の近松坊舎(ちかまつぼうしゃ)に安置して、越前(福井県)吉崎に赴きました。(ブックセンターがある安穏殿。)

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上人が説いた教えは、古い支配体制からの解放を求める声となり、門徒たちは武装して一揆を起こすに至りました。上人は争いを鎮めようと吉崎を退去し、河内(大阪府)出口を中心に近畿で布教しました。「太鼓楼」の大きな太鼓は江戸時代に時刻を告げていました。

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文明10年(1478)には京都山科で本願寺の造営に着手、同12年に念願の御影堂を再建、ついで阿弥陀堂などの諸堂を整えました。上人の布教によって、教えは北海道から九州に至る全国に広まりましたが、明応8年(1499)85歳で亡くなりました。「阿弥陀堂門」(重文)

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この後、山科本願寺は次第に発展しましたが、第10代証如(しょうにょ)上人の天文元年(1532)六角定頼や日蓮衆徒によって焼き払われました。そこで蓮如上人が創建した大坂石山御坊(いしやまごぼう)に移り、両堂などを整備して発展の一途をたどります。

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天下統一を目指す織田信長にとって、大きな社会勢力となっていた本願寺の勢力が障害となり、ついに元亀元年(1570)両者の間に石山戦争が勃発しました。以後11年にわたり戦いは続きました。「阿弥陀堂」(国宝) 宝暦10年(1760)再建された本堂です。

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各地の一揆勢も破れたため、第11代顕如(けんにょ)上人は仏法存続が第一と天正8年(1580)信長と和議を結び、大坂石山本願寺を退去ました。その際、長男・教如(きょうにょ)上人は徹底抗戦をとなえ籠城しました。(阿弥陀堂に上がりました。)

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顕如(けんにょ)上人は紀伊(和歌山)鷺森に移り、さらに和泉(大阪府)貝塚の願泉寺を経て、豊臣秀吉の寺地寄進を受けて大坂天満へと移りました。

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天正19年(1591)秀吉の京都市街整備計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることとなり、顕如上人は六条堀川の現在地を選び、阿弥陀堂・御影堂の両堂が完成した文禄元年(1592)、積年の疲労で倒れ50歳で亡くなりました。節穴を補修する埋め木

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長男・教如上人が跡を継がぎましたが、三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた留守職譲状(遺言)があったので、教如上人は隠退して裏方(うらかた)と呼ばれました。これには、石山合戦での穏健派(和睦派)と籠城派(強硬派)の対立があったといわれています。

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穏健派と如春尼(教如の母)が顕如上人の遺言状を持って秀吉に直訴し、秀吉から10年後の隠退を勧告され、教如上人は従うつもりでした。ところが、強硬派の僧たちが遺言状の真偽を言い立てたため、秀吉の怒りをかい即刻隠退させられたのが実情でした。

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その後、教如上人は徳川家康に接近し、慶長7年(1602)家康から烏丸七条に寺地を寄進され、翌年ここに御堂を建立しました。これが大谷派本願寺(東本願寺)の起源で、この時から本願寺が西と東に分立しました。

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東本願寺の説明では、接近したのは家康の方からとなっていました。いずれにしても、家康が東本願寺の創立を支援したのは、二つを分立させて教団の力をそぐ狙いがあったとされます。両堂をつなぐ廊下から。

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これより先、本願寺は慶長元年(1596)の大地震で御影堂をはじめ諸堂が倒壊し、阿弥陀堂は被害を免れました。翌年に御影堂の落成をみたものの、元和(げんな)3年(1617)には失火により両堂や対面所などが焼失しました。阿弥陀堂に来ました。

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翌年、仮御堂の阿弥陀堂を再建し、18年後の寛永(かんえい)13年(1636)に御影堂が再建されましたた。このころ対面所などの書院や飛雲閣、唐門が整備されました。

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宝暦(ほうれき)10年(1760)本格的な阿弥陀堂が再建され、ここに現在の本願寺の伽藍が整備されました。阿弥陀堂の正面、拝観できるのは御影堂と阿弥陀堂だけです。

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寺務所の「龍虎殿」、この左を通って唐門の方に行きます。

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南(左)の築地塀に唐門と大玄関門があります。正面の門の向こうは本願寺中央幼稚園。

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「唐門」(国宝) 桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き・唐破風の四脚門で、伏見城の遺構とも伝わります。彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから「日暮らし門」とも呼ばれています。

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こちらは「書院」で、「対面所」と「白書院」(特別公開あり)からなります。ほかに、「黒書院」と「伝廊」(非公開)があり、いずれも国宝に指定されています。

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「鐘楼」(重文) この向うにある「飛雲閣」(国宝)は、金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つとされます。秀吉が建てた聚楽第の一部ともいわれ、三層からなる楼閣建築です。

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コメント

昨日の台風はどうでしたか。
淀川はかなり増水していたようです。
昔の建物は凄いですよね。
こんな台風をいくつも乗り換えてきたんだから。

投稿: munixyu | 2017年8月 8日 (火) 11:47

こんにちは。
西本願寺の歴史、大変勉強になりました。
知らない事ばかりです。
ありがとうございました。

投稿: さゆうさん | 2017年8月 8日 (火) 16:07

★munixyuさん こんばんは♪
台風、京都は雨と風ともに大きな被害はなかったようです。それでも、大原や久多の山沿いには避難勧告がでたようで、私の携帯(同じ左京区)に何度も緊急メッセージが入りびっくりしました。

投稿: りせ | 2017年8月10日 (木) 00:00

★さゆうさん こんばんは♪
東本願寺と西本願寺は対立して分裂したのではなく、秀吉と家康の思惑によって別々に創建されたのですね。その当時の事情は複雑で、まだよく理解できていません。

投稿: りせ | 2017年8月10日 (木) 00:11

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