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2017年7月10日 (月)

本隆寺 重要文化財指定と大改修

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の首途天満宮のすぐ北に本隆寺があります。智恵光院通に面する東門から入ると、「平成の大修理中」でした。完成するのが平成38年ということですが、とりあえず入ってみました。

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「本隆寺」は、正式名称を慧光無量山(えこうむりょうさん)本妙興隆寺という、日蓮門下京都十六本山の一つで、法華宗真門流の総本山です。略して、慧光山本隆寺あるいは本隆寺といいます。

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室町時代中期の長享2年(1488)、日蓮宗の僧・日真が後柏原天皇から大和尚の称号を下賜され、四条大宮に堂宇を建立したのが、本隆寺の始まりです。(東門を入ると左手に鐘楼があります。)

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日真は中山大納言親通卿の子として但馬国に生まれ、昌福阿闍梨日全、妙顕寺の日具に師事しました。本隆寺を創建後は、北陸を中心に布教し、本隆寺派(法華宗真門流)の祖となりました。

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室町時代は、京都の武家や商工業者の間に法華宗が広まり、天文初年(1532)頃から法華一揆を結成し延暦寺の勢いをしのぐほどになりました。同5年(1536)2月頃から両者の間の宗論(宗教問答)が武力衝突に発展しました。(工事中の本堂の周囲を回ります。)

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7月には延暦寺の衆徒が法華宗の拠点の21ヵ寺を焼き払い、法華宗徒を武力で洛外に追放した「天文法華の乱」が起こりました。このとき(4代日映の時)、本隆寺の諸堂もすべて焼失して、泉州堺に避難しました。

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天文11年(1542)に勅許によってようやく法華宗が洛中で布教ができるようになり、本隆寺は現在の地を得て再興されました。下は塔頭の「慶成院」で、本堂を囲んで八院の塔頭が並んでいて、いずれも門が開いています。

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江戸時代前期の承応2年(1653)、10代日遵の時、京都御所の炎上により類焼しましたが、明暦3年(1657)名匠といわれる坂上作左衛門が再建しました。(下は「本坊」で、「法華宗真門流宗務庁」の看板もかかっています。)

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現在の本堂はこのとき再建されたもので、京都の法華諸宗本山寺院の中では最古の本堂だそうです。下はタカオカエデの巨木(京都府指定保存樹)。左の本堂の裏を通って、西に行きます。

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本堂の西に「祖師堂」があります。本堂に続いて再建された建物で、こちらも京都府内最古の祖師堂だそうです。

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享保15年(1730)の「西陣焼け」では西陣一帯が焼け野原となりましたが、本隆寺は一部を除いて類焼を免れました。天明8年(1788)の「天明の大火」では京都中が焼き尽くされたといわれていますが、本隆寺の本堂、祖師堂、宝庫は焼失を免れました。(塔頭の玉峰院)

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室町時代のある元旦の朝、5世・日諦のもとに一人の婦人が赤子を託して去りました。子は夜中に母を慕って泣いたので、日諦が題目を唱えながら松の周りを廻ると泣き止んだといいます。その子が7世・日脩となりました。

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その松は祖師堂の正面右にあり、「夜泣止松(夜泣き止め松)」といわれます。樹皮や葉を床の下に敷くと夜泣きが止む、あるいは、松の周りを廻ると夜泣きが止むといわれています。現在の松は3代目だそうです。

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二度の大火にかかわらず炎上しなかったことから、本隆寺は「不焼寺(焼けずの寺)」といわれるようになりました。また、本堂に祀られている鬼子母神の加護とされ、「火伏の鬼子母神」として信仰を集めています。「経蔵」

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「本堂は本格的な七間堂で柱は太く均整のとれた姿を持ち、平面構成は日蓮系仏堂の特徴を良く示している。本堂に続いて建てられた祖師堂もその古い有り様を示すものとして貴重である。」

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「本堂と祖師堂が並立する配置は日蓮諸宗寺院の代表的配置の一つであり、江戸時代前期から中期にかけての日蓮諸宗寺院の一様相を示すものとして価値が高い。」 として、平成26年(2014)本堂と祖師堂が国の重要文化財に指定されました。(下は看板にあった古い写真です。)

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重要文化財に指定されたことで、補助金により修復工事ができるようになり、本堂は平成35年、祖師堂は平成38年に完成予定だそうです。本隆寺では自己負担金のため、瓦の寄進(1枚5千円)の協力を呼び掛けています。

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本堂の前に、かって西陣七名水の一つといわれた「千代の井」があります。西陣焼けのときには本堂の柱に火が移りましたが、本堂に祀られている鬼子母神がこの井戸で水を汲んで火を消したといわれます。下は本堂の正面の南門。

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また、座禅修行をしていた千代野姫(無外如大尼)が水を汲んでいたら、桶の底が抜けて月影が水とともに消えたので,仏道に入ったといもいわれています。現在は枯れて井桁だけが残っています。(下は以前の写真で、工事中は撤去されているようです。)

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「番神堂」 日本の代表的な30の神「三十番神(さんじゅうばんしん)」を祀っています。これらの神は毎日当番が決まっていて、国家を交代で守護するのだそうです。Jng_5792a

境内の西に墓地があり、江戸時代の医師・歴史家の黒川道祐をはじめとする黒川一族、茶道具師の黒田正玄らの墓があります。

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ところで、千代の井によって出家したとされる無外如大尼(むげにょだいに、1223-1298)は、鎌倉時代の臨済宗の尼僧で本隆寺より以前にこの地に「景愛寺」を開いたとされます。井戸はその頃からあったわけです。(塔頭の「玉樹院」)

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如大が東福寺で修業をしている時、ほかの僧が彼女が美しすぎて修業に専念できないと抗議したため、自ら焼火箸で頬を傷つけたといいます。かって景愛寺の支院だった宝慈院が現存し、如大の坐像が安置されています。その坐像にも傷跡があるそうです。西門

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「宗章」は日蓮宗の紋章で、日蓮聖人の名にちなんで、日輪と白蓮華を図案化したものだそうです。この紋章は聖誕七百年(大正10年)記念として考案され、意匠登録されて様々なところに使われています。

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西門の外の通りは浄福寺通で、見事な瓦塀が続いています。

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ここから南に回り込んだのがTOPの南門です。

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コメント

不焼寺、幸運な寺ですね。
でも、ふしょうじ、って言葉が面白いですね。
普通に聞くと、不祥事になってしまいます。

投稿: munixyu | 2017年7月10日 (月) 14:36

不祥事!ほんとだ。。。お寺さん側としては
やけずの寺と呼んでください。。。ってとこでしょうかw
不焼寺っていう俗称は知ってたんですが、詳しく調べてなかった。。。二回も大火をくぐりぬけたんですねぇ。。。近くの本法寺や妙顕寺は特別拝観の時に行きましたが、こちらはまだ行ってません。場所をちゃんと把握してたらすぐそこだったのに。。。
まぁでもこの時期は、すぐそこと思っても暑さで躊躇してしまいそうですが。。。w

投稿: ばるさろ | 2017年7月10日 (月) 21:09

★ばるさろさん こんばんは♪
私も工事が始まる前に行っておくべきでした。完成するのは10年後ということで、古い建物の修復は時間がかかりますね。工事の過程で何か新しい発見があるかもと期待しています。

投稿: りせ | 2017年7月12日 (水) 00:24

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