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2017年7月 3日 (月)

泉涌寺 御寺2017

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日の記事の智積院を出て、泉涌寺を訪れました。

「泉涌寺(せんにゅうじ)は。山号を泉山(せんざん)という真言宗泉涌寺派の総本山で、皇室との関連が深く御寺(みてら)とも呼ばれます。「総門」は江戸時代の建立。

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平安時代前期の天長年間(824-834)、空海がここに草庵を結び、法輪寺としたのが起こりといわれています。

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後の855年、僧・神修が中興し、天台宗の仙遊寺(せんゆうじ)と改称されました。

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鎌倉時代の建保6年(1218)に、月輪大師・俊?(がちりんだいし・しゅんじょう)が宇都宮信房からこの地を寄進され、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を始め、嘉禄2年(1226)に主要伽藍が完成しました。泉涌寺では月輪大師を開山としています。

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月輪大師が伽藍を造営したとき、敷地の一角から清水が湧き出たことから「泉涌寺」と改称されました。 上の参道を下った右手に「水屋形」があり、現在まで涌き続けています。建物は下の仏殿と同様に江戸時代の寛文期の再建で京都府指定文化財。

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当初の伽藍は応仁の乱でほとんど焼失し、「仏殿」(重文)は、江戸時代の寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱によって再建され、一重もこし付入母屋造り本瓦葺き、唐様建築の代表作です。内陣には運慶作と伝える阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊仏が安置されています。

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「浴室」 この建物も寛文期の再建(京都府指定文化財)で明治30年(1897)現在地へ移建されました。床下に置いた鉄釜に沸かした湯を入れ、蒸し風呂として僧が仏前に仕える前に身を清めたそうです。

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「清少納言歌碑」 藤原行成と交わした歌「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」。清少納言が仕えた一条天皇皇后らはこの地の鳥辺野陵に葬られ、清少納言は尼となり冥福を祈る余生を送ったといいます。

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「舎利殿」(京都府指定文化財)は慶長年間、京都御所の建物を移築・改装したもので、仏殿と同時代に現位置へ移されました。開山の月輪大師が熱望していた仏牙舎利(釈迦の歯)を弟子の湛海律師が安貞2年(1228)に宋朝より請来して安置しています。

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同時に請来された韋駄天像・月蓋長者像(共に重文)も内陣に祀られ、請来の日とされている10月8日(旧暦9月8日)には舎利会法要が営まれます。舎利殿は謡曲『舎利』の舞台で、天井に描かれた狩野山雪筆の雲龍図は鳴龍として知られています。

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「唐門」 霊明殿は明治15年(1882)に炎上、同17年明治天皇によって再建された尊牌殿で、入母屋造り桧皮葺き、外観は宸殿風の建物です。

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内陣の中央御扉内に四条天皇像(木像)と御尊牌(位牌)をはじめ、 明治天皇・昭憲皇太后・大正天皇・貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后の御真影、御尊牌が安置され、それ以前の天皇家の御尊牌は左右の御扉内に祀られ、今も毎日回向が行われているそうです。

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「月輪陵(つきのわのみさぎ)」 月輪大師は肥後国(熊本県)に生まれ、若くして仏門に入り、中国の宋で12年の修行、帰国後は泉涌寺で戒律の復興を計り天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場として、北京律の祖と仰がれました。

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月輪大師は、後鳥羽・順徳上皇、後高倉院をはじめ、北条政子、泰時なども受戒し、朝廷や公家・武家両面から深く帰依されました。大師の死後も皇室の帰依は篤く、仁治3年(1242)四条天皇崩御の際は、当寺で葬儀が営まれ、山稜が境内に造営されました。

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その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀は当寺で行われ、山稜が境内に設けられて月輪陵と名づけられました。

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こうして泉湧寺は御香華院として、皇室の長く篤い信仰を集めることになり、「御寺(みてら)」と呼ばれるようになりました。御香華院とは皇室の菩提寺のことです。

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「本坊・御座所」 特別拝観の料金が必要です。明治15年(1882)の霊明殿の炎上とともに、庫裡・書院も焼失しました。 明治天皇は、霊明殿の再建と併行して京都御所内にある皇后宮の御里御殿を御座所として移築しました。

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移築された建物は文化15年(1818)に造営されたものです。左が本坊、右が御座所で御車寄が見えます。

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御車寄に続く一棟は六室に別れ、南側は西から侍従の間、勅使の間、玉座の間、北側は西から女官の間、門跡の間、皇族の間と呼ばれています。建物の内部は撮影できません。

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南東に一段高くなった玉座の間があり、特徴ある違い棚が備えられ、障壁の瑞鳥花弁図は土佐派の宮廷絵師の筆です。すべての部屋の襖はいろいろな主題の絵が描かれ、付属建物の襖絵と合せて、宮廷生活の一端が偲ばれます。

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「御座所庭園」 御座所の南から東南にかけて、小さな庭が造られています。建物の移築時に造園されました。

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塀の向こうに霊明殿や御陵拝所がありますが目立たず、低い築山、白砂になだらかな境界を持つ苔地が配置されています。

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東南には池があり、ツツジやウメモドキの刈込、楓や松が植えられていて、新緑や紅葉の頃が美しいといわれています。

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御座所は両陛下をはじめ皇族方の御陵への参詣の際の休憩所として現在も使われているそうです。

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向うの森に鎮守社があります。

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大門の方から本坊の方を振り返って、向うの山腹に孝明天皇の後月輪東山陵と英照皇太后の後月輪東北陵が築かれています。

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大門の横に「楊貴妃観音堂」があります。

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堂内に六羅漢像があり、その中央に安置されている聖観音像(重文)は、湛海律師が寛喜2年(1230)月蓋長者像などとともに宋から請来した像で、南宋時代の作です。

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その姿の美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造った像との伝承が生まれ、江戸時代はじめころから楊貴妃観音と呼ばれて信仰されてきました。下はお堂の前にある願かけ地蔵。

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お堂の横に、すぐそれと分かる重森三玲作の庭園があります。

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観音堂の右手にある「心照殿」、宝物館でその名は、開山の月輪大師が中御門天皇から賜った加号「大円覚心照国師」から拝借したそうです。開山の書、歴代天皇の尊影(肖像画)、遺品、什宝物、仏画、古文書などを入れ替えて企画展をしています。

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上の写真の手前は楊貴妃桜。楊貴妃観音は美人祈願、縁結び、安産などのご利益があるとか。

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コメント

緑がどんどん静かな音を立てていく。
もうすぐ真夏ですね。

投稿: munixyu | 2017年7月 3日 (月) 15:00

泉涌寺の辺りは木がうっそうと茂っているイメージです。中にはまだ入ってないんですが、時々前を通ります。いつもひっそりしてる気がするなぁ。。。
でも写経とか座禅とかいろいろできるんでしたっけ。。。御座所庭園はまさに木が一杯の泉涌寺のイメージにぴったりのお庭ですね~。そういえば塔頭の即成院にで「極楽浄土」と書かれたTシャツがあると聞いて買いに来たのを思い出しましたw

投稿: ばるさろ | 2017年7月 3日 (月) 22:50

★ばるさろさん こんばんは♪
今回は時間がなくて、御座所は庭園だけ急いで見て回りました。閉門間際で気の毒に思ったのか、特別拝観料はタダにしてくれました。
確かに今の時期の泉湧寺は緑に埋もれていますね。紅葉の頃もおススメですが、長い間訪れていない気がします。

投稿: りせ | 2017年7月 3日 (月) 23:16

★munixyuさん こんばんは♪
このところ、真夏のような暑さでクーラーのお世話になっています。暑中見舞いありがとうございます。CMはまだ見ていませんが、活躍をされていることが大変嬉しいです。

投稿: りせ | 2017年7月 3日 (月) 23:22

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