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2017年7月 7日 (金)

晴明神社 桔梗と安倍晴明

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の白峯神宮を出て、堀川通を少し下がると晴明神社があります。「晴明神社」は、平安時代に陰陽師として活躍した安倍晴明を祀る神社です。

一の鳥居の額に掲げられた金色の社紋は「晴明桔梗」といわれます。通常は神社名や祭神の名前を掲げることが多く、このように社紋が掲げられているのは全国的にも珍しいといわれます。

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「旧・一條戻橋」 一条戻橋は源頼光の四天王のひとり、渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所としても有名です。平成7年に架け替えられ、先代の橋で使われていた欄干の親柱を境内に移し、昔の風情をそのままに「一條戻橋」を再現しています。

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「式神石像」 式神とは、陰陽師が使う精霊です。晴明の屋敷では奥さんが怖がっていたので、橋の下に封じ込めていました。その折には、式神がこの橋を渡る人の占い・橋占(はしうら)をしていたと伝えられています。

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晴明神社は、平安時代中期の寛弘4年(1007)一条天皇の命により創建されました。晴明の偉業を讃えその霊を鎮めるため、晴明の屋敷跡である現在の場所に社殿が設けられました。

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創建時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通という広大なものでした。ところが、応仁の乱の後は度重なる戦火や豊臣秀吉による都の造営によって、その規模は縮少、古書、宝物なども散逸、社殿も荒れたままの時代が続きました。

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二の鳥居の先に塀重門の「四神門」(しじんもん)があり、石柱の上には、四神(東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)が掲げられています。

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晴明が住んでいた当時、朝廷の使いなどが訪れると、この門がひとりでに開き、門から出るとまたひとりでに閉まったそうです。現在でも、それにちなんで電動で開閉するそうです。

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近代になって、式年祭の度に氏子が中心となって神社の整備・改修が行われ、昭和25年(1950)には、多年の宿望であった堀川通に面するように境内地が拡張されるなど復興が進められました。四神門を入ると手水舎があります。

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「晴明井」 手水舎の右に晴明が念力により湧出させたという井戸があります。湧き出す水は現在でも飲め、病気平癒のご利益があるとか。水の湧き出るところは、その年の恵方を向いていて、立春の日にその向きを変えるのだそうです。

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井戸の前に石で北斗七星が描かれています。陰陽道で用いられる「反閇(へんばい)」と言われる呪術的歩行をするためのものです。地霊や邪気を祓い鎮めるため、北斗七星の形に足を運ぶ歩行法を兎歩(うほ)と呼ぶそうです。

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晴明自らの記録として、長徳3年(997)に母の病気を見舞う一条天皇のため、寛弘2年(1005)には大原野社に参詣する中宮の彰子のために反閇を行ったとされています。現在の相撲の四股を踏む動作もこの反閇からきているといわれています。

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現在の本殿は明治38年(1905)に建てられました。

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祭神の安倍晴明は、生前より、天皇から貴族、庶民に至るまで、その悩みや苦しみを取り払うことで大きな信頼を得ていました。神様として祀られた現在も、魔除け、厄除けのご利益があると信仰されています。

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「厄除桃」 古来、桃は魔除け・厄除けの果物といわれ、『古事記』や『日本書紀』でも魔物を追い払う様が描かれているそうです。「桃太郎」の昔話もこれに由来するものとか、自身の厄や、悪縁をこの桃に撫で付ければ、清々しい気持ちになることができるそうです。

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末社の「齋稲荷社」 本殿北(右)に稲荷社、天満社、地主社が祀られています。齋(いつき)という言葉は、この稲荷が、齋院(かっての鴨神社に仕える齋王がおこもりする場所)にあったことに由来します。

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晴明の母は狐で、晴明は稲荷の生まれ変わりだという伝承があるそうです。

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「ご神木」 ご神木は樹齢推定300年の楠です。楠は、かつて虫除けなどに使われた樟脳の原料で、樹皮に触れると独特の感覚があります。両手をあてて大樹の力を感じとってくださいと書いてあります。

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「安倍晴明像」 この像は、当神社が所蔵する安倍晴明の肖像画を元に作成されました。晴明が、衣の下で印を結び、夜空の星を見て遠く天体を観測している様子をあらわしています。

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安倍晴明(920-1005)は、幼い頃から多くの道に秀でていました。成人後は、天文陰陽博士として、天を移り行く星や雲の動きを観察して、宮殿の異変や遠方の吉凶を言い当て、朝廷を始め多くの人々の信望を集めたと伝えられています。

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朱雀天皇から村上、冷泉、円融、花山、一条の6代の天皇に側近として仕えました。村上天皇に仕えていた際には、唐へ渡り、城刑山で伯道仙人の神伝を受け継ぎ、帰国後これを元に日本独特の陰陽道を確立しました。

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今日の年中行事や暦術、占法はこの時に創られたものが多いといわれます。南の塀には「顕彰板」がかかっていて、晴明の伝説の中から、代表的な10の逸話を紹介しています。

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向かいの社務所の前に社紋「晴明桔梗」のモチーフでもある桔梗が咲いていました。晴明像の前に桔梗苑がありますが、そちらはまだ咲いていませんでした。

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境内には、桔梗苑を含めて約2000株の桔梗が植えられ、毎年6月中旬から初秋にかけて、コバルトブルーと白の可憐な花が咲き誇ります。桔梗が開花している期間限定でお守り「桔梗守」を授与しているそうです。

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以下では、晴明以後の陰陽道について少し。平安時代末期から鎌倉時代初期になると、陰陽道は朝廷や院の公事だけでなく、摂関家から官人の私事まで影響を与え、安倍氏と賀茂氏が様々な業務を引き受けました。

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安倍氏は晴明以後も朝廷に代々公家として仕え、室町時代以降は本姓ではなく家名・土御門家と称しました。中世には土御門家が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲するようになりました。

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江戸幕府は陰陽師の活動を統制するため、賀茂氏の分家幸徳井家を再興させ、土御門家とともに諸国陰陽師を支配させました。しかし、やがて土御門家が幸徳井家を圧し、17世紀末には民間の陰陽師に免状を与える権利を獲得して全国の陰陽道を支配しました。

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明治維新後の明治5年(1872)に、新政府は陰陽道を迷信として廃止させました。しかしながら、暦や占いなど日常生活に入り込んだ陰陽道は生き続けてきました。

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大安・仏滅・友引などの暦や、ときどき起こる陰陽師ブームなど、陰陽道は現在でも日本人に影響を与えています。

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コメント

伝説があったり桔梗の星マークがあったり、
少し変わったところですね。桔梗は秋ですが
京都は少し早いですよね。

投稿: munixyu | 2017年7月 7日 (金) 09:46

★munixyuさん こんばんは♪
神社のHPにも秋まで咲くと書いてありますが、ちょっと信じられません。いろいろな種類があるのか、一株が次々と花を咲かせるのか分かりません。

投稿: りせ | 2017年7月 8日 (土) 22:29

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