« 建勲神社 信長とサツキ咲く境内 | トップページ | 詩仙堂 花咲く庭園2017 »

2017年6月 1日 (木)

船岡山 初夏の歴史散歩

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jng_0149a
※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の建勲神社を出て船岡山を散策しました。最初に表(東)参道の途中にある、建勲神社末社の「義照稲荷神社」。

奈良時代の709年、この地に勢力があった秦氏が創祀した祖先神が始まりとされます。秦氏は五穀豊饒織物工芸の稲荷信仰を広め、宇迦御霊大神、国床立大神、猿田彦大神を祀っています。

Jnf_9924a

その左の「稲荷命婦元宮」 伏見稲荷大社にも命婦社があり、船岡山の霊狐が祀られていると記録があります。つまり、この社は伏見稲荷の元宮(親神)であり、秦氏の守護神として今日の西陣織の祖神にもなっています。

Jnf_9930a

表参道の途中から船岡山の中腹をめぐる道に入ります。ここで建勲神社の南参道が交差します。

Jnf_9996a

船岡山は、建勲神社と船岡山公園からなっていますが、その全域が国の史跡に指定されています。

Jnf_9999a

中腹の道は建勲神社の南を通り、最後は石段となって山頂に向かいます。

Jng_0015a

石段を上って山頂(尾根?)に出ると、巨岩があります。神が降臨した跡の「磐座(いわくら)」ともいわれています。

Jng_0031a

「三等三角点」 標高111.8mで、麓からは約45mの高さです。双ヶ岡(116m)と吉田山(123m、三角点は103m)をあわせて京都三山といわれることがあります。いずれも標高がほぼ同じですね。

Jng_0043a

「サイレン塔」 戦争中は空襲警報を、戦後は時刻を知らせていたそうです。現在は何も設備は入っていません。

Jng_0046a

船岡山は東西400mの丘陵で、その優美な姿が船に似ていることから、名が付いたといわれています。頂上あたりからは南が開けて市街が見渡せます。平安京の朱雀大路の延長線上に位置し、都を造営する際に南北軸の基準点となったといわれています。

Jng_0064_71a

平安時代にはここで数々の祭祀が催され、景勝地として遊宴の場ともなり、人々の生活に密着していました。「枕草子」でも「岡は船岡」と讃えられています。南西の方には北野天満宮の森が見えます。東南の京都タワーの左奥に伏見桃山城が見えます。

Jng_0081b

鎌倉時代以後の中世、京都で戦があると船岡山はその戦略の要衝の地となりました。(西南には仁和寺の五重塔)

Jng_0089a 

室町時代の応仁の乱(1467~1477)では、西軍の大内政弘、山名教之(のりゆき)らがここに拠点を築きましたが、応仁2年(1468)9月に東軍の細川勝元によって三方から攻め落とされました。(西は左大文字が間近に見えます。)

Jng_0076a

「旧猿舎」、このあたりに猿の小屋があったそうで、その跡と思われます。

Jng_0100a

戦国時代の永正8年(1511)、室町幕府将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と、前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間で船岡山合戦が起こりました。幕府の政権と細川氏の家督をめぐる戦いでした。

Jng_0079a

義澄が病死するも澄元方は細川政賢を主将として、丹波と山城との要衝である船岡山に陣取り、防戦を試みました。(山の北側に下りると、中腹に見晴らし台があります。)

Jng_0115a

しかし、西国の国人領主の大半を動員した大内軍は強大で、援軍が京都に入れず、最後は政賢が戦死して澄元方は総崩れとなり、京都は再び義稙が支配することになりました。(見晴らし台には休憩所もあります。)

Jng_0116a

安土桃山時代になると、豊臣秀吉が信長の菩提寺の建立を計画し、大徳寺の古渓禅師を開山として正親町天皇から寺名に元号を使用する勅許を得ました(天正寺)。

Jng_0196a

秀吉の計画は立ち消えになってしまいましたが、それ以来船岡山は大徳寺の所有となり、信長の霊地として守られてきました。(この広場からは五山送り火の鳥居形以外を見ることができます。「大文字」)

Jng_0119a

昨日は天正寺の建設が頓挫した原因が、開祖となるはずの大徳寺・古渓宗陳と石田三成が衝突して、秀吉が宗陳を博多に配流にしたことにあるという通説を紹介しました。しかしながら、これには有力な異論があります。「妙・法」

Jng_0138a

天正寺の創建を計画した時期は、秀吉が小牧・長久手の戦いで織田信長の二男・信雄と徳川家康の連合軍と対立している状態でした。天皇のお墨付きの元号寺の菩提寺を建てる計画をもって、信雄と家康を分断しようとしたという説です。「船形」

Jng_0303a

信雄はすぐに秀吉と和睦してその臣従となったので、天正寺はもはや必要なくなった、あるいは天下人を目指す秀吉には、いつまでも信長を敬うことはマイナスと考えたのかも知れません。(大徳寺の楼門、仏殿、法堂の屋根が見えます。)

Jng_0142a

古渓宗陳は、いつまでも天正寺の建設を始めない秀吉と衝突して配流された、あるいは天皇も巻き込んだ寺の建設を中止するために古渓宗陳が利用されたとも考えられます。

Jng_0178a

明治時代になると、天皇の勅命によって、船岡山の東部分が社地として建勲神社に与えられ、明治8年(1875)に東麓、明治43年(1910)に山頂東部分に建勲神社の社殿が建てられました。明治天皇が秀吉が投げだした事業を完成させたともいえます。

Jng_0188a

昭和6年(1931)に都市計画により、京都市は建勲神社の社地を除いた船岡山を「船岡山公園」として大徳寺から借用して現在に至っています。(西に下ったところに野外演奏場があります。)

Jng_0208a

野外演奏場の裏にある「ラジオ塔」は昭和初期から全国に約400基設置され、ラジオ体操やスポーツ中継、戦況を伝える放送が行われました。戦後は家庭でのラジオやテレビの復旧で数が減り、現存するのは全国で25基ほどだそうです(円山公園にもあります)。

Jng_0215a

公園でラジオ体操をする市民が署名を集めて市に働きかけ、拡声器と受信機を設置して、2015年4月にラジオ放送が復活しました。ラジオ塔の前は広場になっています。

Jng_0262a

広場の横に「応仁永正戦跡の碑」があります。応仁永正戦とは、上で紹介した応仁の乱と船岡山合戦のことです。

Jng_0233a

この碑は麓の近くに建っていますが、合戦は山頂や斜面各所で行われ、いくつか遺構が残っているそうです。

Jng_0234a

Jng_0329a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

  ★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jng_0321a

|

« 建勲神社 信長とサツキ咲く境内 | トップページ | 詩仙堂 花咲く庭園2017 »

コメント

サイレン塔、変わったものが残ってるね。
今の塔みたいに高くないけど、こういうのいいですよね。

投稿: munixyu | 2017年6月 1日 (木) 10:30

★munixyuさん こんばんは♪
サイレン塔は比較的新しいからか、何も説明がありませんでした。しばらくの間、私は焼却炉かと思っていました。ようやく本当の使用目的が分かったときは、ちょっと嬉しくなったことを覚えています。

投稿: りせ | 2017年6月 3日 (土) 21:28

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 建勲神社 信長とサツキ咲く境内 | トップページ | 詩仙堂 花咲く庭園2017 »