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2017年6月 7日 (水)

金福寺 芭蕉・蕪村・たか女2017

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の記事の詩仙堂と北山別院を訪れた後、金福寺に来ました。昨年はサツキがほとんど咲かなかったので、今年はどうなのか気になります。

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「金福寺」は平安時代の864年、円仁(慈覚大師)の遺志を継ぎ、安恵(あんね)僧都が創建したとされ、当初は天台宗の寺でした。

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鎌倉時代から室町時代にかけて荒廃しましたが、江戸時代の前期に圓光寺の鉄舟和尚により再興され、以後臨済宗南禅寺派に属しました。中門には「芭蕉庵」と書いてあります。

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鉄舟は松尾芭蕉と親交があり、貞亨年間(1684-1688)に芭蕉が京都を訪れたとき金福寺にも宿泊したといいます。本堂の「残照亭」に上がりました。

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本堂の前庭は江戸時代中頃に作庭された枯山水庭園で、白砂の周囲を築山やサツキが囲み、左奥には高台があります。サツキは昨年より、ずいぶん多く花をつけていました。

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芭蕉が泊まった建物は「芭蕉庵」と呼ばれましたが、後に荒廃しました。江戸時代中期の1776年俳人・画家の与謝蕪村は住持・松宗(しょうそう)の了承を得て、荒廃していた芭蕉庵を再興しました。

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床の間に「蕪村筆 芭蕉翁像」がかかっています。蕪村は俳句の先師として芭蕉をもっとも尊敬し、その足跡をたどって東北地方を旅したほどでした。この肖像は当寺のために蕪村が1779年に描いたもので、芭蕉の肖像画として最も優れているといわれています。

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幕末の1862年には、祇園の芸妓・村山たか女が入寺して尼僧となり、ここで生涯を終えました。本堂の一角にたか女の遺品などが展示されています。たか女は、江戸幕府大老・井伊直弼、後に国学者の長野主膳の愛人となりました。

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一方で、孝明天皇の女官として仕えながら尊攘派の情報を流し、1858年に尊攘派らを弾圧した「安政の大獄」に協力しました。長野は直弼の懐刀として恐れられ「京都大老」と呼ばれました。下は「長野主膳像」。

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ところが、直弼は1860年の桜田門外の変で暗殺され、長野は彦根藩の勤皇派によって首をはねられました。1862年長州と土佐藩士は報復のためにたか女を捕らえ、三条大橋に尼姿で晒しました。「たか女晒し者の図」(『文久秘録』。

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3日後、たか女は宝鏡寺の尼僧により助けられ、清凉寺、圓光寺を経て、金福寺の尼となりました。たか女は、金福寺で晩年の14年間を直弼と長野主膳の菩提を弔いながら過ごしました。墓は圓光寺にあります。

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山門の脇に慶応3年(1867)に村山たか女が造った弁天堂があります。以下の3枚は山門の外の写真です。

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たか女が生まれたのは己巳(きみ)の年でした。巳(白い蛇)は弁財天の使いとされるので、たか女は弁天様を深く信仰していました。

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その生涯は、舟橋聖一『花の生涯』や諸田玲子『奸婦にあらず』に描かれました。祀られている弁財天の写真。

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庭に降りて芭蕉庵を見に行きます。「松尾芭蕉」(1644-1694)は、伊賀国上野に生まれ、藤堂藩伊賀支城付の侍大将の家の料理人として仕えました。その若君・藤堂良忠と共に俳諧をたしなみ、北村季吟に学んで俳号を宗房としました。

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1666年藤堂良忠が死去すると仕官を退き、1673年に江戸に出て水道修築役人になり、やがて俳諧師の道を歩みました。(向こうは本堂で、サツキの花の勢いがずいぶん回復したようです。)

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1680年に深川に草庵「芭蕉庵」を結んで隠棲生活に入りましたが、1682年に天和の大火(八百屋お七の火事)で庵が焼失。庵は翌年再建されましたが、隠棲しながら俳諧師を務めることにはかなさを感じ、翌年から諸国に旅にでかけました。(視界が開けてきました。)

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46歳頃には京都を訪れ、金福寺裏の芭蕉庵、嵯峨の落柿舎、円山の芭蕉堂などを訪れました。その後、大坂御堂筋の花屋の裏座敷で旅の途中で亡くなりました。その最後の句が「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」です。

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「与謝蕪村」(1716-1784)は摂津国に生まれ、1737年に江戸に出て早野巴人(はじん)に師事し俳諧を学びました。1742年には憧れの松尾芭蕉の足跡をたどって、関東から東北地方を周りました。ここで詠んだ句を1首「三度啼きて聞こえずなりぬ鹿の聲」

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1754年には丹後与謝、讃岐などを旅して、1757年42歳の頃に京都の四条烏丸付近に住んで与謝を名乗りました。蕪村を中心に結社「三葉社」が生まれ、巴人の夜半亭2世を継ぎました。(芭蕉庵からは市内北部から愛宕山まで見えます。)

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また、「奥の細道屏風図」や池野大雅との合作「十便十宜帳」を描き、江戸俳諧の中興の祖とともに、俳画の創始者といわれています。この芭蕉庵ではしばしば句会を催したそうです。ここで詠んだ句をもう一首「冬ちかし時雨の雲もこゝよりぞ」。

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芭蕉庵の横に芭蕉がここで詠んだ句碑があります。「うき我を淋しがらせよかんこどり」

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その奥の「芭蕉水」 鉄舟が芭蕉をもてなしたという井戸です。山の斜面ですが今でも水が湧いていました。

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井戸の横に「芭蕉の碑」があります。1776年に蕪村や俳人・樋口道立(どうりゅう)が立て、芭蕉の生涯を讃えた文が刻んであります。蕪村は碑の建立時に「我も死して 碑に辺(ほとり)せむ 枯尾花」と詠み遺言としました。

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蕪村の遺言のように、弟子たちは斜面を上ったところに蕪村の墓を造りました。墓にいく途中に村山たか女の参り墓があります。本墓は圓光寺の墓地の奥にあります。

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蕪村とその門下・江森月居の墓 月居の句「朝霧にまぎれて出む君が門」、「敗軍の五六騎蓑をうちかづき」。蕪村の墓の周囲には月居以外にも門下や京都の俳人の墓や句碑があります。

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墓への道の途中に見晴らしのよい場所があります。1935年に高浜虚子は蕪村の墓を訪ね、このあたりで「徂く春や京をひと目の墓どころ」。

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北西の方角には船形も見えました。

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最後に蕪村が今頃の季節に読んだ句を2首、「夏河を越すうれしさよ手に草履」、「狩ぎぬの袖の裏這うほたるかな」。

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コメント

躑躅とサツキも見分けにくいですよね。
葉と花が同時か花が先かでしたっけ?
咲いてしまうとわからないですよね。

投稿: munixyu | 2017年6月 7日 (水) 09:49

★munixyuさん こんばんは♪
ツツジもサツキも新芽は同じ時期(5月)に出るのだそうです。ツツジが4月中旬から5月上旬、すこし間があいてサツキが5月中旬から6月中旬ごろに咲きます。結果的に、花が先に咲くのがツツジ、同時(あるいは葉が出た後に)咲くのがサツキということになるのだそうです。

投稿: りせ | 2017年6月10日 (土) 22:57

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