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2017年5月 7日 (日)

大原の遅い春 寂光院

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

ゴールデンウィークも最後の日になりましたね。少し前のことですが、まだ桜が咲いていた大原の最後に訪れたのは寂光院です。

「寂光院」は山号を清香山、寺号を玉泉寺という天台宗の尼寺です。

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その創建は古く、飛鳥時代初期の推古2年(594)に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立したと伝えられています。(工事中で山門が閉じています。)

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初代住持は聖徳太子の御乳人であった玉照姫(たまてるひめ)です。玉照姫は敏達13年(547)に出家して慧善比丘尼と称し、日本で最初の三人の比丘尼の一人といわれています。(宝物館の横を通って境内に入ります。)

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慧善比丘尼の後、代々高貴な家門の姫君らが住持となり法燈を守り続けてきたとされますが、史料が消散して名前は伝わっていません。(工事は山門ではなく、内側の参道でした。)

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当初の本尊は聖徳太子作と伝えられる六万体地蔵尊でした。鎌倉時代に新たに作られた本尊(重文)は、平成12年(2000)の火事で焼損したため、現在は模刻された地蔵菩薩像が本堂に安置されています。

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桃山時代頃の建築の特色を残しているといわれていた本堂は、平成12年の火災で焼失した後、5年の歳月を経て平成17年6月2日に当時の姿に再建されました。

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寂光院では他の資料から判明している阿波内侍(あわのないじ、藤原信西の息女)を第2代住持と位置づけているそうです。

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阿波内侍は建礼門院徳子に仕え、崇徳天皇の寵愛をうけた女官でしたが、出家して平安時代末の永万元年(1165)にこの寺に入寺し、証道比丘尼と称しました。(本堂の右手にある書院の横から渡り廊下を通って本堂にお参りします。)

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本堂横(東)にある「四方正面の池」 池の周囲に回遊できる小径がつけられ、どの方向から見ても正面となるように、周りに植栽が施されています。背後の山腹に三段に分かれた小さな滝があり、そこから池に水が流れ込んでいます。

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阿波内侍は質素な身なりだったと思われますが、宮中の女性だけあって着こなしのセンスがよかったようです。草生の里の女性がその真似をして、今の大原女の姿になったといわれています。

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室町時代になると寺は荒廃しましたが、安土桃山時代には淀殿の寄進によって修復がはじまり、1603年には豊臣秀頼により本堂が再建されました。本堂の右手前にある「雪見灯籠」は鉄製灯籠で、秀頼が伏見城にあったものを寄進したと伝えられています。

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書院の横にある手水鉢は、秀頼が1601年に寄進したもので、銘が入っています。淀殿は幼くして亡くなった鶴松を弔い、秀頼の身を案じて寂光院の復興に尽力し、徳川家康も協力したといわれています。

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もう一度平安時代に戻り、第3代住持となったのは建礼門院徳子(平清盛息女、高倉天皇中宮)です。夫・高倉天皇は8歳で即位、父の後白河法皇の院政の下で、1181年に病で亡くなりました。建礼門院は文治元年(1185)年に入寺し真如覚比丘尼と称しました。

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建礼門院は、源平の合戦に敗れ壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔いながら、この地に侍女たちとともに閑居して終生を過ごしました。(西門を出て、本堂の北西にある「建礼門院庵室跡」に向かいます。)

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文治2年(1186)の4月下旬、後白河法皇は忍びの御幸で寂光院の建礼門院の閑居を訪ねました(大原行幸)。その庵室は、「軒には蔦槿(つたあさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」「後ろは山、前は野辺」という有様で「来る人まれなる所」だったそうです。

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法皇が建礼門院の身の上を憐れんだのに対し、建礼門院は自らの人生を仏教の六道になぞられて語った「六堂語り」が知られています。庵室跡の右手奥に建礼門院が使用したという井戸があり、今も水が湧いています。

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火事で焼損した本尊は財団法人美術院において修理を施されて、現在は庵室跡の西の耐火構造の収蔵庫に安置されています。焼損しても重要文化財の指定がされたままなのは珍しい例だそうです。

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『平家物語』によれば、建礼門院は、最初に法皇に激しい恨み言を述べたといわれています。それは、平家の都落ちの際に法皇が比叡山に逃げたこと、大宰府攻撃を法皇が命令したこどでした。(庵室跡の前に小さな「合掌地蔵」が置かれています。)

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庵室跡から谷をはさんで向かいの山の中腹に、阿波内侍と3人の侍女(大納言佐局、治部卿局、右京大夫)の墓があります。阿波内侍は、後白河法皇の大原行幸の一切を取り仕切り、建礼門院の最期をみとったともいわれています。

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もう一度境内にもどり、「諸行無常の鐘楼」 江戸時代に建立された鐘楼には「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっています。鐘身の銘から時の住持は本誉龍雄智法尼で浄土宗僧侶であることが分かったそうです。

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本堂前西側の庭園は『平家物語』にも描かれ、心字池を中心に千年の姫小松や汀(みぎわ)の桜、苔むした石のたたずまいが美しいとされました。姫小松は、「中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」と伝わっています。

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平家物語には、大原行幸で後白河法皇が詠んだ歌が載っています「池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛なりけれ」。

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「姫小松」は樹齢数百年になる五葉松の大木で、「汀の桜」と寄り添うように立っていましたが、先の火事で焼けてしまいました。汀の桜は新しく植えられました。、 

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参道の石段途中に宝物殿の「鳳智松殿」があり、寂光院に伝来する平家物語ゆかりの文化財や資料、火災にあった本尊の胎内仏などを展示しています。

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寂光院右隣に「建礼門院大原西陵」があります。三千院の隣にある後鳥羽天皇と順德天皇の大原陵に対して西にあるからといいます。いずれも宮内庁の管轄です。

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ここ何回かは侍女たちの墓にお参りしていたので、この日はこちらに来ました。

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建礼門院は庵室に阿弥陀三尊を安置して28年間祈る日々を送り、建保元年(1213年)に58歳で亡くなりました。中央の五輪塔が墓です。

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ここからは草生の里を見渡すことのできます。

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コメント

見ただけでこれは春で昨日の写真は見ただけで初夏に感じるのはなぜだろう。
空気の違い?
不思議です。

投稿: munixyu | 2017年5月 7日 (日) 09:48

★munixyuさん こんばんは♪
写真の季節で混乱させてごめんなさい。大原は4月19日、平等院は4月30日の撮影です。未公開の写真がいっぱい貯まっていて、できるだけスムースに今の季節に追いつこうと思っていました。季節に敏感な方には気になるのでしょうね。ちょっと反省しました。

投稿: りせ | 2017年5月12日 (金) 21:01

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