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2017年5月 6日 (土)

平等院 鳳凰堂と藤の花2017

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

藤の花がそろそろ見頃とのことで平等院を訪れました(4月30日)。満開まではもう少しでしたが、一時期の元気のない状態よりはずいぶん回復したようでした。

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平等院は、ときの権力者、関白藤原道長の別業(別荘)を、道長の死後永承7年(1052)にその子頼通が仏堂に改めて平等院としたのが始まりです。「表門」は江戸時代初期に塔頭・浄土院の門として伏見城から移築したものを、1957年に現在地に再移築しました。

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平安時代後期、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。表門を入って、鳳凰堂の手前に大きな藤棚があります。

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平等院が創建された1052年は末法初年とされ、都の治安が乱れ、僧兵の強訴、疱瘡などの疾病の流行、火災などの混乱が続きました。頼通は、別業の寝殿を本堂に改めて平安を祈念しました。

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「観音堂」(重文) 鎌倉時代前期に創建当時の本堂跡に再建された建造物とされています。全体的に簡素な建物ながら、垂木を地円飛角の二軒とし、天平以来の格式高い様式に倣っています。(藤棚の周囲を一周します。)

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初代執印(開山)として寺門派園城寺長吏・明尊を迎え、当時は天台宗寺門派に属していました。

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このときの境内は、北大門(宇治橋南)、西大門(宇治駅付近)、南大門(浄土院南)を有して広大なものでした。以後、平等院は藤原氏の氏寺になりました。

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この藤棚の藤は樹齢200年以上で、数年前まで房の数が減り、長さも短くなって勢いがない状態が続いていました。そこで、専門家の指導のもと境内の藤の樹勢回復を目的に剪定を行ってきたそうです。

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平等院では、毎日のように藤の開花情報を写真入りで公表しています。

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最新(5月5日)には、「藤の花は見ごろを迎えております。藤棚の全体的な見ごろは、ゴールデンウィークいっぱいまでだと予想されますが、これからの気温の変化によっては早まるかもしれません」。

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「鳳凰堂」(国宝) 寺の創建の翌年(1053年)、阿弥陀堂(鳳凰堂)が建立され、定朝作の阿弥陀如来坐像が安置されて、盛大な落慶法要が営まれたそうです。鳳凰堂は、「中堂」、その左右の「翼廊」、背後の「尾廊」からなっています。

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実は4つの建物はつながっておらず、全体の造形美のために配置されていると考えられています。中堂の前に「平等院型石灯籠」(重美)があり、頼道は興福寺南円堂前の銅燈籠を写したともいわれています。

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鳳凰堂は阿字池の中の島に東向きに建てられ、あたかも極楽の宝池(ほうち)に浮かぶ宮殿のようにその美しい姿を水面に映します。浄土思想では、阿弥陀如来が来世での極楽往生に導くとされ、頼道の娘・四条宮寛子は、対岸に小御所を建てて拝んだそうです。

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鳳凰堂の中堂内に、本尊として丈六、皆金色の「阿弥陀如来坐像」(国宝)が安置されています。本尊は仏師・定朝の晩年の作で、平安時代後期の藤原様式の最高傑作、和様化の極点といわれているそうです。

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鳳凰堂と阿字池からなる浄土式庭園は1922年に国の史跡及び名勝に指定されました。

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近年の発掘調査(1990-2003)により、平安時代の築造時の阿字池の遺構が発見されました。築造、当時の姿に戻すため、石組の護岸から玉石を敷き詰めた州浜に復元されました。また、鳳凰堂北に、平橋、小島(中島)、反橋が新たに復元されました。

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対岸に、先ほど見てきた藤棚と観音堂が見えます。

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池の南に「平等院ミュージアム鳳翔館」があります。宗教法人としては初の総合博物館(登録博物館)です。国宝の梵鐘、雲中供養菩薩像26躯鳳凰1対、重文の十一面観音立像、市指定文化財の帝釈天像、地蔵菩薩像などが展示されています。

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大部分が地下にあり、最新のコンピュータグラフィックスによる堂内再現映像(GW中の土日祝は混雑が予想されるため休止)や、超高精細画像による国宝検索システムなどもそなえています。館内は撮影禁止です。(ミュージアムショップ前の休憩所。)

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鳳凰館の外にある鐘楼には、平等院創建時に制作された日本三名鐘の一つの「梵鐘」(国宝)の複製が吊るされています。日本三名鐘は、姿の平等院、声の三井寺、銘の神護寺と呼ばれているそうです。実物は鳳凰館に陳列してあります。

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鳳凰堂の裏(西)に来ました。ここには二つの塔頭、浄土宗系の「浄土院」と天台宗系の「最勝院」があります。この二つの塔頭寺院は現在、平等院を共同で管理しています。そのいきさつや二つの塔頭の詳細は別の機会に紹介するとして、

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最勝院の境内に「源頼政(よりまさ)の墓」があります。頼政は平安時代末期の武将で歌人でもありました。1156年に起こった「保元の乱」では源義朝に従い、後白河天皇を警固して、源為家・為朝と戦いました。

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1159年に藤原通憲(信西)・平清盛と藤原信頼・源義朝が争った「平治の乱」では、清盛につき、その後平家の政権に唯一の源氏として加わり、清盛から信頼されました。清盛の推挙で武士としては破格の従三位に昇り、公卿の身分になりました。鳳凰堂の尾廊。

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そのため「源三位(げんさんみ)」と称せられました。ところが、あまりの平氏の専横に不満が高まり、後白河天皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)と結んで平氏打倒の挙兵を計画しました。そして、諸国の源氏に平氏打倒の以仁王の令旨を伝えました。

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ところが、計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされました(「治承の乱」)。以仁王と頼政らは決起する予定だった興福寺に向かう途中、この付近で平氏の大軍に追いつかれて戦いになりました。(表門の方に戻ります。)

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頼政軍は宇治橋の橋板を落として抵抗するも、平氏軍に強引に宇治川を渡られました。頼政は以仁王を逃がすため平等院に立てこもりましたが、多勢に無勢で一族が皆討ち死にして、この「扇の芝」付近で自害しました。(表門の横に遺跡「扇の芝」への道があります。)

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以仁王は脱出しましたが、やがて追いつかれて打ち取られてしまいました。右は頼政の辞世の句 「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける」

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頼政らの挙兵は失敗に終わりましたが、以仁王の令旨の効果は大きく、源頼朝・義仲をはじめとする諸国の源氏や大寺社が決起して「治承・寿永の乱」に突入し、のちに壇之浦で平氏が滅びる契機となりました。

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表門の外にも藤棚があります。

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コメント

藤の花、満開までもう少しでしょうか。
色はだいぶ回復してよかったですね。
藤は結構難しいから一度弱ると時間が掛かると思う。

投稿: munixyu | 2017年5月 6日 (土) 11:08

こんにちは。
平等院についての写真と詳しい記述大変参考になりました。最近の様子も解りました。
本当に丁寧な記述に感謝します。
ありがとうございました。

投稿: さゆうさん | 2017年5月 6日 (土) 11:21

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