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2017年5月 1日 (月)

長岡天満宮 霧島ツツジと道真と智仁親王

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

霧島ツツジが見頃の長岡天満宮に行ってきました。もう少し紹介したい桜の写真があるので、これからしばらくは最新の写真と交互に記事にすることにします。

正面大鳥居は総御影石製で、平成14年の菅公御神忌1100年大萬燈祭を記念して、平成10年10月に奉納 されました。

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参道は「八条が池」の真ん中を横切る中堤を通り、その両側に霧島ツツジが咲いています。ここの霧島ツツジの樹齢は推定150年程度、樹高が3m近くもあり、長岡京市の天然記念物です。

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八条が池の周囲にも霧島ツツジが咲いていますが、本殿にお参りした後で見て回ることにします。少し低くなっているところで手を伸ばして写真を撮ると、料亭の「錦水亭」が写りました。

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平安時代ここは菅原道真の領地で、風光明媚な土地として知られていました。道真は在原業平らと共に詩歌管弦を楽しむなど、何度もここを訪れました。

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彼が太宰府へ左遷される際にお供をした3人が別れ際に戴いた道真自作の木像を ご神体として祀ったのが、長岡天満宮の始まりとされます。

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道真は太宰府に旅立つ途中この地に立ち寄り、都を振り返って名残を惜しんだことから 「見返り天神」とも呼ばれています。

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室町時代にはすでに社殿が建てられていたようで、応仁の乱(1467-77)で焼失しましたが、1498年に再建されました。

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安土桃山時代の慶長の大地震(1596)で社殿が倒壊しましたが、1598年には再建されています。 江戸時代前期の1623年、境内が八条宮智仁親王の家領となり、以後八条宮(桂宮)家によって社殿が造営・管理されてきました。(「撫で牛」、頭と足腰が光っています。)

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現在の本殿は昭和16年に平安神宮の社殿を拝領移築したもので、三間社流れ造りの素木で端正な姿をしています。拝殿は平成10年に既存の素木の拝殿を朱塗りにし増改築したものです。

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中小路宗城(左)は明治から昭和にかけての宮司で、当時衰退していた神社の復興に尽力し、社殿の改修や連歌所の新築、八条が池の整備、霧島ツツジの保存など様々な事業を行い、社格を当初の村社から、郷社、府社と二度も昇格させたそうです。

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次代の宮司が中小路宗康(右)で、平安神宮の旧本殿を譲り受けて移築する事業を行いました。拝殿前にある「紅梅殿」は道真のかっての屋敷の名前です。ここからもう一度、八条が池に戻ります。

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天満宮への参道途中の池のほとりに、創業明治14年のたけのこ料理の老舗「錦水亭」があります。右が厨房で、周囲に沢山のお座敷があります。この季節でしか味わえない、柔らかいたけのこの会席料理が名物です。五月末までの予定だそうでうす。

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高くない塀越しに、お座敷からの眺めがうかがえます。

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まず池の東南隅(右奥)まで行きます。

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平成5年に霧島ツツジの保全のため中堤が拡幅され、3本の通路が平行して通っています。今度は南側の通路を渡ります。

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この八条が池は、 江戸時代前期の寛永15年(1638)に当時の領主・八条宮が築造した灌漑用の溜め池です。外周約1㎞、貯水量約35,000トンで、南北に細長い形をしています。(向こうに錦水亭のお座敷が並んでいます。)

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八条宮家は八条宮智仁親王(1579-1629)が始まりで、江戸時代末まで続いた宮家です。(南側の通路を渡って、西の方を振り返っています。)

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智仁親王は正親町天皇の孫で、豊臣秀吉の猶子(養子)となり、関白職を約束されていました。しかし秀吉に実子・鶴松が生まれたために解約され、秀吉の勧めによって八条宮家を創設したのです。

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彼は学問文芸に秀で、幼いときから和歌と連歌に堪能でした。細川幽斎から二条派歌学を学び、後にしばしば歌会を催して、後進の歌人の育成にも尽力しました。天正5年(1600年)幽斎から古今伝授を受けます。(加賀前田藩が寄進した石の太鼓橋が見えます。)

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「古今伝授」とは、勅撰の和歌集である古今集の難解な語句の解釈などを、秘伝として師から弟子に伝授することです。大名で歌人であった幽斎が、関ヶ原で死んで途絶えることを恐れて、智仁親王に託したのです。

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中堤を渡った西の天満宮の参道横に、古今伝授のゆかりの地であることを示す石碑があります。

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関ヶ原の戦いの後、兄の後陽成天皇は弟にあたる智仁親王に皇位を譲ろうと、徳川家康に打診しました。ところが、智仁親王が秀吉の猶子であったことを理由に反対され、結局弟の政仁親王(後水尾天皇)が皇位を継きました。(こちらは中堤の北の通路。)

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すると、智仁親王は古今伝授を後水尾天皇に相伝して、それ以後歴代天皇や上層貴族に相伝される「御所伝授」の習わしが生まれました。このことが皇室の歌道および学問的な権威を高めることになりました。

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御所伝授は口伝と紙に記したものを伝える「切紙伝授」(きりがみでんじゅ)によって構成され、現在まで引き継がれています。(中堤と中ノ島は総檜造りの水上橋で結ばれ、「八条が池ふれあい回遊のみち」と呼ばれています。)

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智仁親王は造庭の才にも優れ、元和初年(1615)頃から家領の下桂村に別業(別邸)の造営を始めました。この別業が現在の桂離宮で、八条通の沿線上にあったことから、八条宮と称されました。八条宮は後に桂宮と呼ばれます。

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別業の造営は智仁親王の死後も続き、半世紀にわたって行われました。(回遊のみちの途中に休憩所「六角舎」があります。)

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この広大な八条が池は、八条宮家が力を注いできた別業の造園技術が生かされたものだと考えられています。

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池の北端まで来ました。

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コメント

この赤さがいいですよね。
燃えるような赤、いや、燃えている赤?
が五月らしいと思います。

投稿: munixyu | 2017年5月 1日 (月) 10:44

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