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2017年5月 3日 (水)

乙訓寺 牡丹と早良親王と弘法大師

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日の記事の長岡天満宮を後に、乙訓寺まで歩きました。

「乙訓寺」は、真言宗豊山派長谷寺の末寺で、「今里の弘法さん」ともいわれる乙訓地域で最も古い寺院です。以下では、この寺が牡丹寺とよばれるようになるまでの歴史を振り返ります。下の「表門」は江戸時代の1695年建立の長岡京市指定文化財。

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乙訓寺は、広隆寺の創建(603年)とほぼ同じ頃、推古天皇の勅願で聖徳太子が創建したとされます。発掘調査でも、建物の設計には法隆寺と同じ高麗尺が使われていたそうです。

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延暦3年(784)に都が奈良から長岡京に移り、長安(西安)にならった都城づくりが進められました。わずか10年で都は京都に移ることになりますが、その間乙訓寺は都を守護する寺として重要視されました。

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遷都の翌年に建都の長官・藤原種継が暗殺される事件が起きました。早良(さわら)親王は桓武天皇の実弟で皇太子でしたが、暗殺団と見られた一味と交流があったため、乙訓寺に幽閉されました。(早良親王供養塔)

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親王は身の潔白を示すため断食しましたが、淡路島に流罪となり護送途中に淀川べりで絶命し、遺骸はそのまま淡路に送られ葬られました。

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その後、天皇の母や皇后の死、皇太子の重病、悪疫の流行や天変地異が続き、早良親王の怨霊の祟りであるとうわさされました。朝廷は事件の15年後に親王を復権して、崇道天皇と追称し、陵墓を大和国(奈良)に移すなどの措置を講じました。

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全国至るところにある「御陵神社」や「春秋の彼岸行事」も、早良親王を始めとする無念の死を遂げた人々の怨霊を鎮める行事が元になっています。

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平安時代の弘仁2年(811)弘法大師は、嵯峨天皇から乙訓寺の別当(統括管理の僧官)に任命されました。(弘法大師像と右はそのお手植えとされる菩提樹。)

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翌年、弘法大師と同時に入唐した最澄が訪ねてきて、真言の法を教えてほしいと頼みました。最澄は弘法大師よりかなり早く帰国したため、唐で学ぶ期間が短かかったのです。(鎮守八幡社 江戸時代の1695年に建立され、長岡京市指定文化財。)

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大師は親切丁寧にその法を伝授し、その後も最澄と空海の交流が続きました。(本堂は江戸時代の1695年建立で、長岡京市指定文化財。)

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その後、二人はそれぞれ真言宗(弘法大師)と天台宗(伝教大師)を確立して、日本仏教に大きな変革を与えました。乙訓寺はこの二人が最初に出会った寺です。(本尊は秘仏で、「合体大師像」といわれています。)

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弘法大師が中国から持ち帰った仏典は、最澄も驚くほど日本にこれまでないものばかりでした。嵯峨天皇は大師の新しい仏教に期待して、乙訓寺を鎮護国家の道場として整備しました。

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大師はこの寺で仏典を研究するかたわら、みかんの木を栽培したり、狸の毛で筆を作ったりして、大陸の進んだ文化を我が国に根付かせようとしました。醍醐寺には「狸毛筆奉献帳(伝空海)」が現存しているそうです。

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平安時代の寛平9年(897)宇多天皇は譲位して仏門に入り、乙訓寺を行宮(あんぐう、仮宮)として堂塔を整備しました。この時期には法皇寺と呼ばれました。

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室町時代になると衰えますが、それでも十二坊あったとされます。しかし、内紛があり、足利義満は僧徒を追放して、寺を南禅寺の伯英禅師に与えて一時禅宗となりました。その後、織田信長の兵火で衰退しました。

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「鐘楼」は建立年不明ですが、長岡京市指定文化財。梵鐘は江戸時代の1696年鋳造、大戦時に戦時供出となり、1968年に再鋳造されました。

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江戸時代になり、長谷寺で修学後江戸に出た僧・隆光は、将軍綱吉に厚く信任されて将軍の祈祷寺の江戸護持院住職となりました。隆光は乙訓寺を請い受けて自ら住職となりました。

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弘法大師が境内で栽培したみかんは当時西域渡りの珍果とされ、その史実にもとづいて客殿前にみかんの大樹が植えられています。

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綱吉は寺領百石を寄進して徳川家の祈祷寺とし、諸大名・公卿の信仰も集まりました。隆光は乙訓寺を再び真言宗に改め、堂宇の再建、乙訓寺法度の制定など、寺の復興に尽力しました。 当時の寺域は八千二百余坪あったといいます。

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明治時代になると、神仏分離令後の廃仏棄釈、第二次世界大戦後の農地改革などで、乙訓寺は苦難の道をたどりました。(「裏門」も表門と同時期に建立され長岡京市指定文化財。)

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昭和9年の室戸台風では、表門から本堂まで続いた松の並木のほとんどが倒れてしまいました。

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また、応仁の乱も生き延びたとされる下の写真のモチノキ(市の天然記念物)も多大な損害を受けました。

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昭和15年長谷寺第68世能化(住職)の海雲全教和上が被害著しい境内を見て、参拝者にしばしの安らぎをと牡丹2株を寄進しました。 

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その後、乙訓寺歴代住職らの尽力によって株数も年を追って増加し、今では約2000株の牡丹の花が境内を彩る「牡丹寺」として知られるようになりました。

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コメント

凄い数の牡丹
いい匂いがしてきそうです。
初夏ですよね。

投稿: munixyu | 2017年5月 3日 (水) 10:03

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