千本釈迦堂 本堂とお亀桜
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枝垂桜が満開の千本釈迦堂に行ってきました。節分の日におかめ節分を見に行ったばかりですが、今日は本堂を拝観するなど境内をゆっくり見て回りました。
「千本釈迦堂」は、正式名称を大報恩寺(だいほうおんじ)、山号を瑞応山(ずいおうざん)という真言宗智山派の寺院です。
鎌倉時代前期の1221年、天台宗の義空上人により開創されました。義空上人は藤原秀衡の孫にあたり、19才で比叡山澄憲僧都に師事し、十数年の後にこの千本の地を得て、苦難の末、本堂をはじめ壮大な諸伽藍を建立しました。
創建時に正式な寺院として四条天皇へ寺格の申請すると、?舎(くしゃ)、天台、真言と三つの宗派の認可を受けて、大勢の参拝者が集まりました。門前には様々な商売をする人も増え、大変賑わいのある寺でした。
室町時代の応仁の乱(1467-1477)では、西軍の中心地に位置していたためほとんどの伽藍は焼失してしまいました。ただし、本堂だけは両陣営から保護されて奇跡的に焼失を免れました。しかし、山城や播磨などの寺領を失い、以後は衰退しました。
参道の右手にある「不動明王堂」、山名氏清、山名宗全の念持仏という不動明王尊を祀ります。氏清は南北朝時代の北軍の将、その孫・宗全は細川勝元との勢力争いが応仁の乱の一因となり、西軍の旗頭(総大将)となりました。
安土桃山時代の1591年、豊臣秀吉によって寺領100石が与えられました。その朱印地は江戸幕府にも引き継がれましたが、江戸時代初期に京都所司代・板倉勝重により真言宗に改宗、智積院に与えられてその住職の隠居所になりました。
1730年には大火で伽藍が焼失しましたが、本堂だけは類焼を免れました。
明治初年(1868年)の神仏分離令後の廃仏毀釈により、北野天満宮の仏教伽藍が破却されました。その際、北野経王堂願成就寺(経王堂)が千本釈迦堂に観音堂(太子堂)として移築されました(上下の写真)。
千本釈迦堂の本堂は、鎌倉初期に建造されてから数々の戦乱や火災にも生き残り、京都市に現存する最古の建造物として国宝に指定されています。
本堂は、一間四面堂(方三間堂)に前庇と四周に庇を加え、一間四面堂の発展したものとされます。本堂を拝観することにしました。
内陣の本須弥檀高御座式の「厨子」(国宝)内に、快慶の弟子・行快作の本尊「釈迦如来坐像」(重文)を安置しています。四天柱内を内内陣とし、来迎壁、須弥檀があり、「天蓋」(国宝)には八葉蓮華文が飾られています。
この本堂は、長井飛騨守高次という棟梁が総棟梁になり、配下に数百人の大工を従えて采配を振るいました。ところが、尼崎の信徒から寄進された四天柱の一本を30cmほど短く切り落としてしまいました。
高次は思い悩んでいたところ、妻の阿亀の助言によって、残り3本の柱も短く切り揃えて上部に斗(ます)ぐみを施すことによって無事本堂が上棟(むねあ)げしました。上棟げとは建物の柱や梁などの基本構造が完成することです。
ところが、高次は総棟梁が妻の助言で大任を果たしたことが知られると、面目が丸潰れになると心配していました。それを知った阿亀は、上棟式の前に自刃してしまいました。(内陣の横の「おかめ人形展」では、奉納された阿亀の人形を陳列しています。)
上棟式で高次は亡き妻の面を御幣につけ、その冥福と本堂の落成を祈ったといわれています。(いずれの人形も当時の美人の、突き出た額、低い鼻、膨らんだ頬、おちょぼ口をしています。)
拝観順路には「霊宝殿」も含まれています。ここには、鎌倉時代の1218年に快慶作の「十大弟子像」(重文)、1224年に定慶作の「六観音菩薩像」(重文)、藤原時代初期に菅原道真が庭の梅の木で自刻したという「千手観音立像」(重文)などが安置されています。
境内に出て枝垂桜の前に来ました。この桜は「お亀桜」と呼ばれていますが、桜の種類ではなく、阿亀さんにちなんで枝垂桜に名を付けたものです。
高次が妻・阿亀の菩提を弔うために境内に宝筐院塔を建てたといわれています。江戸時代の1718年に、三条通菱屋町大工・池永勘兵衛により新たにおかめ供養塔(宝篋印塔)が建てられ、「おかめ塚」として残っています。
1979年に建築業者により「阿亀多福像」が建てられました。阿亀さんには、夫婦円満、建築工事の安全、商売繁盛、開運招福、多福招来祈願などの信仰があるそうです。
現在でも棟上げの際に、おかめの面の付いた上棟御幣を屋根裏に置く慣わしがあります。3枚の扇子を円にして、中央におかめ面を飾り、家宅の火災除け、家内安全と繁栄を願うのだそうです。
阿亀さんが死んでしまったことは、納得できない女性は多いはずです。それでも、庶民の女性としては珍しく多くの方に信仰されてきたことは、せめてもの供養ともいえます。
山門の横に「稲荷社」があります。茶吉尼天尊と天上多田稲荷大明神を祀り、鎌倉時代の1250年に2世・如輪上人により、賀茂、春日、石清水、日吉、今宮の五社とともに勧請したとされています。
ここにはソメイヨシノも咲いていました。
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コメント
桜はいろんな種類があるし、それぞれに風情が違って不思議ですよね。
それにしても刀傷や槍傷は生々しいですね。
今見ても怖いです。
投稿: munixyu | 2017年4月12日 (水) 09:17
こんにちは。
千本釈迦堂 本堂とお亀桜 丁寧な解説ありがとうございます。歴史的な出来事をお乗り越えて今日ある本堂も高次の妻阿亀の知恵で乗り切り、阿亀のの名を付けた枝垂れ桜も何と素晴らしい事か、言い伝えを読むにつけ行って見たくなりますね。記事の件も含めてご苦労様です。
投稿: さゆうさん | 2017年4月12日 (水) 10:47
★munixyuさん こんばんは♪
柱の傷は生々しいですね。たまたま失敗して柱を傷つけたと考えると、狭い本堂の中で凄惨な戦いが行われたことが想像できます。
投稿: りせ | 2017年4月13日 (木) 01:16
★さゆうさん こんばんは♪
桜の季節や行事があるときは賑やかな境内ですが、いつもは近所の方がお参りしたり、子供たちが遊んでいる、町中の神社です。そんな日々を重ねて何百年も歴史を乗り越えてきたと考えると、普段の日でも訪れる価値があると思います。
投稿: りせ | 2017年4月13日 (木) 01:29