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2017年4月 2日 (日)

大徳寺塔頭・龍源院 庭園と方丈

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

大徳寺の塔頭の中で、通年公開されている龍源院を訪れました。大徳寺の東の総門を入って左の道沿いにあります。下はパンフレットの見取図で、線が引いてある廊下・縁側が拝観の順路です。、

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「龍源院」は、戦国時代の文亀2年(1502)に能登の領主・畠山義元、豊後の大友義長、周防の大内義興らが、大徳寺72世・東溪宗牧(とうけいそうぼく)を開祖として創建しました。下の「表門」(重文)は切妻造、檜皮葺の四脚門。

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以後、大徳寺の四法脈のうち、南派の本庵(龍源寺派の拠点)として、有力な地位を占めてきました。明治の初めの神仏分離令により、大阪の住吉神社内にあった往時の慈恩寺と岐阜高山城主・金森長近が大徳寺に創建した金竜院を合併して今日に至っています。

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庫裏にある拝観受付を過ぎると方丈へ向かう廊下があり、その左の部屋が書院になっています。3間あって、手前の部屋は来客用として入れませんでした。

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中央の部屋から「?沱底(こだてい)」が見えます。臨済宗の宗祖・臨済禅師が住んだ中国河北の鎮州城の南に流れる?沱川から名付けられました

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左右に二つの礎石があり、こちらは「吽(うん)の石」。

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奥にあるのが「阿(あ)の石」です。

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二つの礎石はかって聚楽第にあったと伝えられ、「阿吽の石庭」との別名もあります。

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一番奥の間に、陳列棚があり日本最古の銘がある火縄銃と側面に四季の草木の蒔絵がある碁盤があります。碁盤は秀吉と家康が伏見城で対局したと伝えられ、金森友近が秀吉から拝領したものです。

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庫裏と方丈の間に「担雪井」があります。この井戸は創建当時から現存している野井戸です。

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方丈前石庭は「一枝担(いっしたん)」と呼ばれています。開祖の東渓禅師が、師・実伝和尚より贈られた室号「霊山一枝之軒(りょうぜんいっしのけん)」より名づけられたといいます。 

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白砂は大海原を表し、こちらの苔山は亀島。ここにはかって樹齢700年といわれた「楊貴妃」という中国種の山茶花の老木があり、11月中旬から翌年の4月頃まで深紅の花を一面に咲かせていましたが、昭和55年に樹齢がつきて枯れてしまいました。

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右の石組みが鶴島で、左奥の石組みが蓬莱山を表しています。蓬莱山は仙人が住むといわれる不老長寿の吉祥の島です。

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方丈(重文)は室町時代の禅宗方丈建築の数少ない一つで、軒瓦は八坂神社楼門とともに室町時代最古の様式だそうです。向こうに附玄関(唐門、重文)の裏側が見え、方丈、表門と同時代の建築です。

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「室中」は方丈の中心の間で、住持が説法をしたり法要を行う部屋です。襖絵の「龍と波の図」は筆者不明。

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室中の奥の「真前」は祖師や開祖を祀るところです。ここでは、本尊の釈迦如来坐像(重文)を祀っています。鎌倉時代の快慶の弟子・行心の作で、京都八釈迦の一つになっています。

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「檀越(だんおつ)間」(檀那間) 寺の支援者の檀越(檀那)と親しく話をする間だそうです。

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「開祖堂」 方丈の西にある開祖・東溪禅師の塔所です。昭和の建築ですが、南北朝、鎌倉、室町時代初期の様式を取り入れた唐様木造建築の代表作だそうです。

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開祖堂前庭の「鶏足山(けいそくざん)」 苔地に石畳、灯籠などが置かれています。

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「竜吟庭」 世阿弥の作と伝わる方丈の北庭で、ここでは杉苔の苔地が大海原を表し石組みが陸地です。

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中央の石組みが須弥山。この世は九つの海、八つの陸地からなり、須弥山はその中心とされます。人間はもちろん鳥も飛び交うことができない、誰一人として窺い知ることができない真実の自己本来の姿を象徴しているとか。その前に遥拝石があります。

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下は「衣鉢(えはち)の間」 「衣」は出家僧の衣、「鉢」は食事を表し、僧侶が日常生活をする居間のことだそうです。部屋の名は「狸窟」と呼ばれています。

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「書院の間」 公式な訪問者を迎える部屋(応接間)です。敷物の暖席(畳)は高貴な方が使い、一般の人々は使用できないのだそうです。室名は「狐窟」です。右奥の屏風は「白藏主(はくぞうす)」という題で、逸話があります。

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昔堺の南宗寺塔頭・松林寺に雲水僧がいました。黒墨の衣を身に着け修行をするかたわら、こっそり町に出て貧しいもの、悩んでいるものを助けていたそうです。実は、雲水は山内の耕雲庵に住む一匹の古狐でした。古狐亡きあと、附近の人々は耕雲庵の裏山に祠をたてて、白藏主と名づけて丁寧に祀ったそうです。

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上の屏風はこの物語を題材にした明治の画家・鈴木松年の作ですが、この逸話には続き(実話)があります。昭和35年の5月に大阪市西成の杉浦という方が突然この寺を訪ねて来て、不思議な話をしたそうです。この右に東司(トイレ)があります。

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「東滴壺」 方丈の東にある坪庭です。わが国で最も小さく、底知れぬ深淵に吸い込まれるような感じがする、格調高い石庭として知られています。

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杉浦さんは最近家業が不振で家族にも不幸が続くのである行者に見てもらったところ、お宅に狐を描いた掛け軸か屏風がないかとたずね、その狐は修行中の身でまだ修行を続けたいと願っているといわれたそうです。(最初に来た廊下から見た東滴壺。)

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もし狐を描いたものがあったら一日も早くとこかの寺に納めなさいといわれ、その行者を含めた数人で寺を探し回っていたそうです。ところが、この寺の前までくると足が止まって動けなくなり、意を決して門を叩いたのでした。一番西の書院の間

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この寺に狐窟という部屋があると聞いて、杉浦さんは「白藏主」の屏風を寄進することに決めました。その後、杉浦家は平穏無事に暮らすようになり、今なお健在だそうです。

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コメント

阿吽の石庭、こういうのいいですよね。
豪華でもない何気ない阿吽の呼吸。
奥の深い石庭ですよね。

投稿: munixyu | 2017年4月 2日 (日) 13:18

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