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2017年4月14日 (金)

勧修寺 桜咲く庭園

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日醍醐寺に行く前に、勧修寺を訪れました。杜若や睡蓮の名所として知られていますが、参道や境内には沢山の桜が咲いていました。

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「勧修寺(かじゅうじ)」は、山号を亀甲山といい、山科・来栖野(くるすの)にある真言宗山階(やましな)派の大本山です。

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平安時代前期の900年、醍醐天皇が若くして亡くなった生母の藤原胤子(いんし)追善のために、東大寺の承俊律師を開山に迎えて創建したのが始まりです。勧修寺の名は、醍醐天皇の祖父・藤原高藤(たかふじ)の諡号からとったものです。山門

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創建以来、皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院でした。中門を入って右手の「宸殿」は、江戸時代の1697年に明正院の旧御所から移築された建物で、京都市文化財。宸殿の左から庭園に行きます。

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「臥竜の老梅」 江戸時代に京都御所から移された樹齢300年といわれる白梅で、3代が一つになっています。親は竜が横になった形の根、子は枯れ木の幹が残り、孫は生きていて花を咲かせます。

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「書院」は江戸時代前期の1686年、京都御所の建物の部材により再建され、重要文化財。臥竜の老梅が左手にあります。

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「勧修寺形石灯籠」 徳川光圀が寄進したとされる雪見燈籠。

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書院の前庭から本堂の方に向かいます。境内には沢山の(親切な?)立て看板があります。

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鎌倉時代に後伏見天皇の第7皇子の寛胤(かんいん)法親王が15世住持となり、それ以来近代まで門跡寺院となりました。「五大堂」

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「本堂」(京都市文化財)は、江戸時代に霊元天皇の仮内侍所を移築したもので、醍醐天皇の等身大といわれる千手観音立像を安置しています。

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南北朝時代の1336年に戦火で類焼しましたが、1388年に足利義満が勧修寺八幡宮に田地を寄進して再建されました。

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室町時代の応仁の乱の勧修寺合戦(1470年)によって焼失しました。池のほとりにある「観音堂」は昭和の建築です。

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安土・桃山時代には豊臣秀吉による伏見城築城や伏見街道(後の東海道)の設置によって寺領は縮小され、衰退しました。綺麗な顔立ちの観音菩薩像が祀られています。

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江戸時代の元禄期(1688-1703)に霊元天皇皇子の済深法親王により再建され、以後は徳川家と皇室の援助により復興されていきました。中央の高い木は「千年杉」と呼ばれ、京都の庭園中最も高い杉だそうです。

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ここは、「勧修寺氷室園」といい、「氷室池」を中心とした池泉回遊式庭園で京都市指定名勝になっています。、

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池の周囲を回ります。「この先行かれるのはご自由ですが、大いに危険」と書いてあります。雨で道がぬかるんでいると、池に落ちないように気を付けなければいけません。

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江戸時代に制度化された宮門跡、摂家門跡、准門跡の寺格は廃止されましたが、後に門跡の称号を使うことは許されました。

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ところで、『今昔物語集』には、勧修寺の創建にまつわる説話が書かれています。勧修寺を創建した醍醐天皇の祖父母のロマンスです。

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藤原北家の流れを汲む藤原高藤は鷹狩が趣味でした。ある時鷹狩のため南山階(みなみやましな)に来て、雨宿りのため通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れました。(池を巡る道沿いに西国四十八箇所巡りができる石仏が並んでいます。)

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宮道弥益は山城国宇治郡(現山科区)の大領(郡司)でした。勧められるままに弥益の屋敷に泊まった高藤は、その娘の列子に一目ぼれし、一夜の契りを結びます。「弁天堂」

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翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・良門は激怒して、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁してしまいました。(向こうに醍醐の山が見えます。)

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その後、高藤と列子は長らく会うことはできませんでしたが、それから6年後に高藤はようやく列子と再会しました。氷室池の中の島はサギの巣になっています。

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列子には娘がいて、6年前に高藤との一夜の契りで宿した子でした。この娘が、後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇を生んだ藤原胤子です。池を一周しました。(「翠微瀑(すいびばく)」 翠微とは山の中腹のことだそうです。那智の滝のようです。)

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胤子は宇多天皇との間に四男一女をもうけましたが、若くして亡くなってしまいました。でも、子の醍醐天皇が即位したことによって、高藤は内大臣にまで昇進、胤子の兄弟・定方も右大臣となり、同家は(藤原)北家勧修寺流として栄えました。

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観音堂の裏にある弘「法大師像」 その周りに四国八十八箇寺の霊石が敷き詰められていて、それらを踏んで歩けば2分で霊場周りができるそうです。

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勧修寺流には、甘露寺・清閑寺・万里小路・中御門(なかのみかど)・勧修寺・坊城・穂波・葉室・池尻・梅小路・岡崎・芝山・堤の13の家系があり、家職として朝廷の実務を担当する家が多く、弁官や摂関家家司を多く輩出していることで知られています。

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勧修寺流は、この勧修寺を一門の精神的なより所(氏寺)にして、他流派よりも結束が固かったといわれています。

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コメント

絵に描いたような桜景色。
でももう馬酔木も咲き始め、季節はどんどん進んでいきますよね。
桜は、次の雨で散るかもしれませんね。

投稿: munixyu | 2017年4月14日 (金) 13:32

★munixyuさん こんばんは♪
前日(13日)は雨でしたが、それほど強くなくて、ソメイヨシノは何とか持ちこたえたようです。開花してから寒い日が続いて、長い間楽しませてくれましたが、この土日が最後になりそうです。

投稿: りせ | 2017年4月16日 (日) 00:27

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