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2017年4月 1日 (土)

恵光寺と市原野の寺たち

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日、京都でも桜(ソメイヨシノ)の開花が発表されました。例年より3日遅く、昨年より8日遅い開花宣言です。見頃は5~8日後ということで、もう少しお待ちください。

昨日の記事の小町寺(上の写真)を出て向かいの恵光寺を訪れました。二つの寺は篠坂峠を挟んだ崖の上に向かい合って立っています。

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恵光寺は山号を慈雲山(じうんざん)という、浄土宗西山禅林寺派(本山は永観堂)に属する寺です。平安時代中頃の948年、市原の里に智空慶寿法尼という尼僧が開いた「慶寿庵」という草庵が始まりです。

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その後長いあいだ無住の状態が続きましたが、安土桃山時代の天正年間(16世紀後半)に光空明道上人が寺を中興したと記録にあります。(この寺にもたくさんの石仏があり、下の一番大きい一体は弥勒菩薩、その両側は阿弥陀如来で鎌倉時代後期の作とか。)

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一方、江戸時代の元禄年間(17世紀末)に、京極・西林寺の第4世・空覚上人がこの市原の川向こうの向山(むかいやま)の裾に隠居をして建てたお寺が恵光寺です。空覚上人は念仏西山派の学僧で、隠居をしても向学の志が厚く、多くの書籍を著しました。

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この山は朱子学者の藤原惺窩(せいか、1561‐1619)が「背向山(そがいのやま)」と名付けたことから、村の人は「向山」と呼び、文人・宗教家が隠居するようになり、恵光寺の空覚上人もその一人でした。

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明治の廃仏毀釈によって、多くの寺が廃寺や合併する中、上の二つの寺が合併して現在地において「恵光寺」として再出発しました。(本堂には本尊の阿弥陀如来、脇侍として観音菩薩、勢至菩薩を祀っています。)

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昭和58年(1983)に現在の堂宇が再建され、現在に至っています。(市街地より少し遅く梅が見頃に近い状態でした。)

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「鐘撞き堂」 鐘楼は平成21年(2009)の法然上人800年大遠忌に改築されました。梵鐘には道空亮隋上人が作った漢詩の銘文が刻まれています。戦争中の金属回収令によって供出されましたが、昭和30年(1955)檀信徒の念願がかなって再鋳されました。

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夏の「平和の鐘」と大晦日の「除夜の鐘」の行事には、近在の多くの方が鐘を撞きに訪れるそうです。

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「地蔵堂」 安産地蔵尊と両脇に多くの小さな千体地蔵が安置されています。地蔵が被る真綿を切り取り産婦の腹をさすると安産するとの信仰があるそうです。(鐘楼の前から)

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鐘楼からさらに石段を上がると大きな墓地があり、その前に「静林(じょうりん)寺」があります。山号を稲葉山という浄土宗の寺院ですが、詳しいことは分かりません。

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恵光寺と静林寺がある丘から向こうの山の斜面に「東北部クリーンセンター」が見えます。京都市のごみ処理施設で、厳しい排ガス基準を定めて最新の処理設備を採用し、全国一クリーンな施設とうたっています。

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ここにも石仏や石碑が並んでいます。昨日の記事で紹介したように、この地はかって大原や鞍馬を含む広い範囲の村の共同墓地になっていました。その当時の多くの石塔や石仏が今なお大切に守られています。

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こちらの石段は静林寺の参道になっています。

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ところで、市原野の異なる宗派の寺院が集まって「さんが・いちはらの」として様々な活動をしています。そのメンバーは、恵光寺、静林寺、補陀落寺、大念寺、野中専称寺、更雀寺(すずめ寺)などです。

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地域活性化の活動や、地震の被災地への救援活動、共同で講話や托鉢などの布教活動もしているそうです。前述の平和の鐘もその活動の一つです。

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府道40号(鞍馬街道)に下りて、南に行くと「大念寺」の石標があります。補陀落寺のすぐ南になります。大念寺は山号を東光山という浄土宗の寺ですが、それ以上のことは分かりません。

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大念寺からさらに南にある更雀寺まで歩きました。車が多い鞍馬街道を避けて、その脇道を通って20分くらいの距離です。

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「更雀(きょうしゃく)寺」に着きました。山号を森豊山(しんぽうざん)という浄土宗西山禅林寺派の寺院です。近世の壇越・森豊後守にちなむとされます。森豊後守は戦国時代の金谷城主中条出羽守常隆の家臣で、資産家だったようです。

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更雀寺の創建は古く、奈良時代末の793年桓武天皇の勅願により賢憬が開創したといいます。かつて千本三条付近にあった藤原家の勧学院(寄宿舎)の跡地に建てられ、当初は法相宗でした。

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その後焼失・再建を繰り返しましたが、やがて衰退。江戸時代の寛永年間(1624-1644)に勧進僧・浄春が錦大宮町(中京区)に再興し、浄土宗に改宗されました。

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近代の四条大宮あたりの都市化によって、昭和52年(1977)現在地に移転しました。本堂には本尊の阿弥陀如来を祀っています。

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「雀塚」 平安時代中期の貴族の藤原実方(さねかた)は、花山天皇、一条天皇に仕え、左近衛中将にまで昇進しました。実方は歌人でもあり、一条天皇の面前で藤原行成と歌のことで口論し、怒った実方が行成の冠を奪い投げ捨てました。(雀の墓とされる五輪塔と塚)

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この行動が天皇の怒りを買い、陸奥に左遷され999年任国で騎上したとき馬が倒れ下敷きになり亡くなりました。その後、当寺の住職の夢に雀が現れ、自らを実方と名乗りました。翌朝林に死んだ雀があり、住職はそれを手厚く葬り五輪塔を建てて供養しました。

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「地蔵堂」の「桶取地蔵」 壬生近くの白拍子・松並千歳の娘・照子は、生まれつき左手の指が三本しかありませんでした。照子は、来世は障害がなく生まれることを願い、壬生の尼ヶ池の水を閼伽水として地蔵に供えていたので桶取地蔵と呼ばれたそうです。

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一方では「雀森地蔵」とも呼ばれています。実方の霊は雀に化身して京都に戻り、殿上の台盤(宮廷で食事を載せる台)にとまって食事をついばみ、夜は森で羽を休めたといいます。この地蔵は洛陽四十八願所地蔵めぐりの第3番札所になっています。

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壬生大念佛狂言の「桶取」に桶取地蔵が登場しまてすが、寺は壬生寺に変わっています。妻がいる男が地蔵詣りをする美しい照子を見初めて、言い寄ります。そこに醜い妻が現れ嫉妬して夫婦の立ち回りが始まり・・・ ちょっと物悲しい結末になります。

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ところで、藤原実方は光源氏のモデルともいわれ、清少納言をはじめ20名以上の女性と交際したといわれています。でも、藤原行成とのけんかは大人げない、馬につぶされるのはかっこ悪い、雀に化けてでも都に帰りたいのは未練がましいとも思います。

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また、着任した陸奥国で任務を果たさないで急死してしまったので、後任がずいぶん苦労したり、陸奥国から献上されるはずの砂金が滞ったので、大宰府が宋の商人とトラブルになった話も残っています。ちょっとはた迷惑な光源氏でした。

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コメント

もうすぐソメイヨシノ
ようやくソメイヨシノ
いろんな思いの中での開花宣言。嬉しい春ですよね。

投稿: munixyu | 2017年4月 1日 (土) 09:40

恵光寺には行かなかったなぁ。。。その手前の静林寺に登ったのですが、補陀落寺に早く行かなきゃ!と急いで行って、その手前の坂道を見落としてましたw駅から補陀落寺に行く途中、大神宮社のから少し南に行ったあたりの民家の前に「惺窩先生幽栖址」の道標があったので、調べたりしてたんですが、ここも関係あったんですね。林羅山、石川丈山の先生ってことですから、街の偉い先生が隠居してるってことで、結構有名だったのかもですね。
オレはそのまま鞍馬街道の車しか通らない殺風景な道を行ってしまいましたが、ミニカー博物館が気になっただけでしたw
もう一度復習をしに行かなければ!!

投稿: ばるさろ | 2017年4月 1日 (土) 23:55

★munixyuさん こんばんは♪
ソメイヨシノは、同じ地域では一斉に咲くので写真を撮って回るのが大変です。定番の名所だけでなく、あまり知られていない場所もと思うと、迷ってしまいます。天候や混雑具合もあるので、行き当たりばったりになるかも知れません。

投稿: りせ | 2017年4月 2日 (日) 01:18

★ばるさろさん こんばんは♪
恵光寺のご住職は活発な方で、宗派の異なる寺院をまとめて様々な活動をされています。市内から離れていてめったに行くことがないので、私も見逃しているところが多いと思います。本当は最初に調べてから行く方がいいのですが、いつも行き当たりばったりです。

投稿: りせ | 2017年4月 2日 (日) 01:26

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