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2017年3月21日 (火)

長徳寺 おかめ桜満開

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

出町柳にある長徳寺に行ってきました。非公開の寺院ですが、今の時期だけ大勢の方がおかめ桜を見物に訪れます。

「長徳寺」は、京阪と京福の出町柳駅の南、川端通に面しています。隣の常林寺、正定院とともに、浄土宗の「砂川の三軒寺」と呼ばれていました。

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上の呼び名は、かって背後に流れていた小川がこの付近で鴨川に合流して、3寺が砂の川原に建っていたからだそうです。(山門)

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長徳寺は、江戸時代初め(1605)に摂津溝口領主の長谷川宗仁によって、万愚牛廊を開山として裏寺町(中京区)に創建されました。宗仁は、京都の町衆出身ともいわれ、信長、秀吉、家康のそれぞれに仕えた武将です。(山門から広くて綺麗な庭が見えます。)

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信長に従って戦功をあげ、信長没後秀吉に伏見の代官に任じられ、名護屋城築や醍醐の花見にも尽力しました。関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、戦後は家康に北政所の番を任ぜられました。

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一方で、画業にすぐれ法眼(ほうげん)の位を許され、茶人としても活躍した文化人でもありました。法眼とは、当初は僧都に相当する僧の高い位でしたが、中世以降は医師、絵師、仏師、連歌師などの達人にも与えられた称号です。

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その後焼失し、1672年に現在地に移転・再建されました。

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近世になって長徳寺の名が京都に広まる事件が起きました。

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大正7年(1918)8月に起こった米騒動は、京都でも大きな騒ぎになりました。政府が8月初めにシベリア出兵を決定すると、各地の米屋が投機目的で売り惜しみをして米価が吊り上がりました。

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富山県魚津の漁村で起こった騒動は、瞬く間に全国に広まり、8月10日には京都にも騒ぎが及びました。

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最初に、群衆が東七条派出所に押し掛け、そのうち近くの米屋を襲撃するなどして騒ぎが拡大、翌11日には京都市全域に騒動が広まりました。(花の香りに誘われてメジロが来ました。)

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京都各地で群衆が派出所、米店などを破壊し、電線を切断、市電を止めるなど大騒動になりました。(ヒヨドリ?)

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騒動が最も激しかったのが、ここ出町柳の長徳寺でした。警察だけでは鎮めることができず、ついに京都府知事は鎮圧のために第十六師団(伏見)に出動を要請しました。

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翌12日の午前0時過ぎになってようやく長徳寺付近の騒動は鎮圧され、この全国的な米騒動で軍隊が出動した始めての例となりました。

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舞妓さんが見に来て記念撮影をされていました。祇園甲部の小花(こはな)さんです。

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親切にも、他の見物客とのツーショットにも応じていました。

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昨年の時代祭りで祇園甲部は中世婦人列の輪番で、小花さんは先輩芸妓さん演じる「静御前」のお供をされていました。

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コメント

いよいよ桜、まずはいつものおかめ桜ですね。
メジロもやってきて、いいものです。

投稿: munixyu | 2017年3月21日 (火) 13:29

やさしい舞妓さんにウットリです~~w
それにしても、このおかめ桜、ほぼ根本のあたりでも花が付いているんですねぇ 結構珍しいかも。。
ヒヨドリは甘党だそうなので、オイシイ蜜でもでているのでしょうか。。。
大正時代でも米騒動があったのか。。。習ったのかもしれないけど、明治以降の歴史って授業時間がたりなくて、素通りみたいな所も多いから忘れてしまったのかも。。。十六師団というと今は聖母学園になっている所ですよね!

投稿: ばるさろ | 2017年3月21日 (火) 23:04

★ばるさろさん こんばんは♪
第16師団は京都で編成され、鴨川が氾濫したときに出動するなど、京都の人々にとっては馴染みが深い部隊でした。でも、第2次大戦末期にレイテ島で全滅してしまい悲しい運命をたどりました。
本部の跡地は戦後に聖母女学園に払い下げられ、本部庁舎は学園の本館として残されています。

投稿: りせ | 2017年3月22日 (水) 20:46

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