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2017年3月28日 (火)

随心院 歴史と史跡を訪ねて

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

随心院のはねず踊りを見たあと、境内の梅園とお堂や史跡を見て歩きました。昨日の記事では紹介しなかった随心院の歴史も紹介します。下ははねず踊りの舞台があった薬医門の前にある「小野梅園」の入り口。

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かってこの付近は小野郷(おののごう)と呼ばれ、小野氏が勢力を持っていた土地でした。小野氏は、孝昭天皇の皇子を祖とする春日氏の末裔とされ、7世紀前半から平安時代中期にかけて活躍した氏族です。(南の方の入り口から梅園に入ります。)

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近江国や山城国愛宕郡小野郷(左京区)を拠点としてこの付近も支配していたと考えれられています。遣隋使の小野妹子をはじめ、遣唐使、官人、学者、歌人の篁(たかむら)、貴族、能書家の道風など、今に名が残る人物を輩出しています。

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平安時代前期の女流歌人・小野小町も小野一族で、小野篁の孫ともいわれています。随心院は、この小野郷の南に位置し、小野小町の旧跡だったと伝えられています。

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平安時代中期の991年、弘法大師から8代目の弟子にあたる仁海僧正が、一条天皇からこの地を賜り、一寺を建立して開基となりました。古くは牛皮山曼荼羅寺と称しました。この珍しい寺名にはいわれがあります。

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仁海僧正の夢に亡き母が牛に生まれ変わって現れ、その牛を鳥羽のあたりに尋ね求めて飼養しましたが、日なくして死んでしまいました。悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描き、本尊にしたことにちなんでいます。

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仁海僧正は深く宮中の帰依を受け、勅命により神泉苑で請雨(雨乞い)の法を9回もおこない、その度に霊験があり雨が降ったので、雨僧正とも呼ばれました。

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その後、第5世の増俊阿闍梨のときに、曼荼羅寺の子房として隨心院を建立しました。ついで1229年、第7世・親厳大僧正が後堀河天皇より門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡と称されました。

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その頃、堂舎も次第に整備され、七堂伽藍は壮美を誇っていましたが、鎌倉時代の承久の乱(1221)、室町時代の応仁の乱(1467-1477)にあってすべて焼失、以後は衰退してしまいました。

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その後、安土桃山時代の1599年、豊臣秀頼の援助によって24世・増孝僧正が本堂を再建し、以後は九条、二条両摂家から門跡が入山、両摂家の寄進で随心院が守られてきました。

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梅園の東は竹林になっていて、小野小町の邸宅跡ともいわれています。向こうに、「小野小町化粧井戸」があります。

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小町の邸宅にあった井戸ともいわれ、今でも水が湧いています。この向こうには「深草少将百夜通いの道」もあります。

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もう一度薬医門の方に戻り、その東の小径を随心院の塀に沿って行きます。途中に鳥居があります。この道沿いに小野小町にちなんで奉納された歌碑が並んでいます。 鳥居の向こうに、「史跡 小野庭苑」の石標があります。

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上の道の右手(東)に「清滝権現社」があります。近くの醍醐寺に青龍(せいりゅう)大権現があり、醍醐寺の守護女神とされています。

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清滝権現はもともとインドの女神・善女竜王とされ、先日の記事で紹介したように神泉苑で空海が雨乞いをした時に現れました。随心院を開いた仁海僧正も神泉苑で雨乞いをしたので、この地に清滝権現が勧請されたのかも知れません。

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随心院の北にいつくかの石碑があります。下はかっての金堂跡に立つ宝篋印塔、慶長年間(1596-1614)に九条増孝門跡がこの地に金堂(本堂)を再建し、明治初年(1868)旭雅和尚により、再建された塔頭・大乗院に移されました。

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ところで、はねず踊りでは深草の少将が99夜目に代理の者を行かせたのが見つかり、恋は成就しなかったことになっています。

「文塚」 小野小町に寄せられた千束もの手紙が埋められているといわれている五輪塔。

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ところが伝承では、小町を深く愛した少将は、百夜通いがかなった後に結婚するつもりでしたが、雪が降る99夜目に亡くなってしまいました。「小町塚」

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この時小町も若くはなく、最後の恋と思っていたのかも知れません。「小町の侍女の塚」

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最後に、薬医門の前に戻りお堂に上がりました。庫裏の玄関の前にある歌碑「花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに」 小町は仁明天皇の寵幸を受け後宮の女官となりましたが、天皇亡き後の37歳の頃からこの地に隠棲したとされます。

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雨が降りそうなので、この日最後のはねず踊りは室内で行われることになりました(TOPの写真)。出演者たちの控えの部屋もあって、立ち入りできない場所がありました。

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「九品(くぼん)の松」 浄土への往生の程度を上品上生から下品下生までの九つに分け、それらの九体の阿弥陀仏を松の群生で表しているそうです。

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最後のはねず踊りは本堂で行われ、この「能の間」から見物するようになっていました。

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庭園がありますが、よく見えません。

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「小町堂」 かつて経蔵だった建物を2015年に永代の女性専用納骨堂に改修されました。

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壁面には小野小町をはじめとする六歌仙が描かれ、納骨壇が設けられています。

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控えの間?

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「小野榧の切り株」 小町は榧(かや)の実に糸を通して深草の少将が通う日数を数えたといいます。そんな手間がかかることをしたとすれば、やはり小町も本気だったのでしょう。

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玄関付近にはねず踊りの可愛い人形が飾ってありました。中山多美子さん作の陶器人形です。

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コメント

固い梅、柔らかい梅
梅にもいろいろありますよね。
匂いもいろいろあっていいですよね。
いろんな春の匂いだね。

投稿: munixyu | 2017年3月28日 (火) 09:40

随心院って山科ですよね。。。五キロぐらいの距離を毎夜深草少将は通ったって話ですから、やはり今の深草の辺りから稲荷山の南側あたりの谷あいを行ったということかも。。。なんて考えると、伝説とは言え深みがでてきますね。小町の最後の恋だとすると、そう若くもない自分にどれだけ本気なのか計りたくもなる。。。ってのもありそう。
謡曲にもなっているてことは、もうかなり創作の部分が多いんでしょうが。。。

投稿: ばるさろ | 2017年3月28日 (火) 23:06

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