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2017年3月26日 (日)

豊国神社 秀吉没後から神社創建まで

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

智積院を出て、京都国立博物館の西の大和大路通を北に行くと豊国神社があります。「豊国(とよくに)神社」は、豊臣秀吉を祀る神社で、京都十六社朱印めぐりの一つです。

以下では境内を散策しながら、秀吉が亡くなってからこの神社が創建されるまでの歴史をたどります。下は東西の正面通から。

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天下人となった豊臣秀吉は、二度目の朝鮮出兵中の1598年8月18日に伏見城で亡くなりました。当初は軍の士気に関わるとして公表されず、密かに東山三十六峰の一つの阿弥陀ヶ峰(193m)西麓で霊廟(豊国廟)と社殿(豊国社)の建設が始められました。

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この唐門(国宝)は伏見城の城門でしたが、廃城後、二条城、南禅寺・金地院を経て豊国神社に移されました。桃山時代らしい豪華絢爛な門で、かって極彩色の彫刻と金箔で飾られていて、西本願寺、大徳寺の唐門と合わせて国宝三唐門のひとつです。

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翌1599年4月13日秀吉の遺体は伏見城から運ばれ、阿弥陀ヶ峰山頂に葬られました。4月16日仮殿が竣工して方広寺の鎮守社と定められ、4月17日には神号宣命使により、豊国社には「豊国大明神」の神号が宣下され、正一位の神位が授与されました。

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4月18日から正遷宮儀式が行われて徳川家康、毛利輝元も参詣、社司は吉田神道の卜部兼従、社僧は卜部梵舜、祭祀の鑑は妙法院常胤法親王が務めました。このとき、大和四座による申楽が演じられたと伝えられています。(手前が拝殿、奥が拝所・本殿。)

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その後、豊臣秀頼が社領4万石を寄進して境内の整備を進めました。徳川家康も一万石の社領を寄進しました。この時、境内に56基の燈篭が建ち毎夜献灯されました。

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上は千成り瓢箪状の「ひょうたん絵馬」、下は「わらじ絵馬」 どちらも秀吉ゆかりのもので、出世・開運のご利益を祈願します。

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1604年の秀吉7回忌は7日間にわたり盛大に執り行われ、湯立、馬揃え、風流踊り、町衆の踊り、神楽が奏され、勅使の参拝と奉幣儀(天皇からのお供え)が行われました。

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1615年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、事態は一変しました。家康の命により豊国廟、豊国社は破却されることになり、墓は方広寺裏に移されました。「豊国大明神」の神号は奪われ、法号「国泰院殿」を用いて仏教により供養されることになりました。

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1616年家康は秀吉の遺宝(甲冑、秋草蒔絵文台など多数)を妙法院・常胤法親王に寄進しました。1619年には新日吉神社が参道をふさぐように移築され、豊国廟は新日吉(いまひえ)神社に遷されました。

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高台院(秀吉の正室ねね)の嘆願によって豊国社の取り壊しは中止されましたが、その修理は禁じられ、間もなく朽ち果てたといわれています。下は大正14年(1925)に開館した宝物館で当時として最新鋭の鉄筋コンクリート製、展示ケースのガラスは「大正硝子」。

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1868年明治天皇の意向により、明治新政府は新日吉神社の神楽殿を仮社殿として豊国社を再建しました。この頃、若王子より鎮守社・槇本稲荷神社が遷座されました。

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「馬塚」 徳川幕府下のもとで秀吉の遺骨が密かにここに移され、供養が続けられたという伝承があります。五輪塔には秀吉の命日と梵字が刻まれており、「馬」は秀吉の名がはばかられたため、近くの「馬町」から付けられたとされます。(宝物館の裏にあります。)

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明治時代の1873年豊国社は別格官幣社となり、1881年社地を現在地(方広寺大仏殿旧地)に遷して豊国神社が創建され、遺宝も妙法院から返却されました。

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豊国神社の再興地として当初は大阪が考えられていましたが、京都への誘致運動が高まり、本社は京都、別社が大阪に祀られることになったそうです。

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上は「蜂須賀桜」 阿波徳島藩主・蜂須賀家に由来する寒桜の一種で、例年は2月中旬から3月上旬に見頃となるそうです。上賀茂神社にもあります。

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「槇本稲荷神社」 上で紹介したように若王子から移された鎮守社で、槇本稲荷大明神を祀り、商売繁盛、家内安全のご利益があるとされます。

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面白い形の絵馬です。

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1927年秀吉の正室・北政所(高台院、ねね)を祀る摂社・貞照神社が創建されました。下の拝殿の奥が本殿、その右に貞照神社があります。秀吉とねねは乱世の中、当時としては珍しい恋愛結婚によって結ばれ、天下を治める家を興し終生を共に過ごしました、

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400年の時を経てもなお、仲睦まじく寄り添って祀られている二人にあやかって、本殿と貞照神社の前で神前結婚式が行われるそうです。

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コメント

ここにも歴史あり、ですね。
まあでも秀吉はあれぐらいで死んでよかったと思います。

投稿: munixyu | 2017年3月26日 (日) 10:00

正面通りの語源の場所はここだったんですね!
智積院の近くにあるとは思ってたのですが、豊国廟や大豊神社、新日吉神宮の樹下社などがごっちゃになって、一番重要な豊国神社を忘れてしまうという。。。(;´д` ) トホホ
場所も、三十三間堂に行った時ぐらいに近づいただけで、最近はこっちまで入ってきたことがなかったので、気が付かなかった。。。
徳川が政敵として豊臣家を貶めるのは、歴史の常道とは言え、けっこうえげつないですね。明治天皇はようやく徳川から政治を取り戻したのに、京都から出ていくし、徳川のモノをあまり壊したって話を聞きませんね。。。まぁ討幕派との力関係もあって専制的には出来なかったのかもですが。。
でもここを復活させたことや、宗門改めと廃仏稀釈の関係とかは、徳川の世を終わらせたというサインでしょうね。

投稿: ばるさろ | 2017年3月26日 (日) 20:00

★ばるさろさん こんばんは♪
豊国神社の歴史は複雑ですね。家康は関ヶ原の戦いの後でも秀吉の霊に敬意を払っていたのに、大坂夏の陣の後では手のひらを返したように・・・ それでも北政所には配慮をしていたのが印象的です。
明治時代になってからの復興は、国家神道を進める明治政府の思惑もあってちょっと複雑な思いがします。

投稿: りせ | 2017年3月26日 (日) 22:41

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