« 雪景色 宝が池公園 | トップページ | 上徳寺 世継地蔵尊大祭 »

2017年2月 8日 (水)

建仁寺・久昌院 特別公開

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jnd_4108a
※写真は全てクリックで拡大します。

少し前のことですが、今年の「京の冬の旅」として特別公開されている久昌(きゅうしょう)院に行ってきました。建仁寺境内の西の通りに面している塔頭寺院です。

「久昌院」は、江戸時代初めの慶長13年(1608)美濃加納(いまの岐阜市)城主の奥平美作守(みまさかのかみ)信昌(のぶまさ)が、三江紹益(さんこうじょうえき)を開基として創建した奥平家の菩提寺です。

Jnd_4076a

久昌院の名は信昌の法名からつけられたといわれています。(山門を入った右手に鎮守社があります。鳥居に比べて小さな祠ですが、かなり古い造りでした。)

Jnd_4082a

信昌は奥平貞能(さだよし)の長男で当初は定昌と称していました。天正3年(1575)の「長篠の戦い」では、長篠城に1か月立てこもり武田勢を撃退して、織田・徳川連合軍を勝利に導いた勇将です。(山門の正面に玄関、右手に庫裏があります。)

Jnd_4081a

この戦いの功績をかわれて、信長から「信」の字を与えられて信昌と改名し、家康の長女・亀姫を妻とすることになりました。(拝観はまず方丈に上がります。)

Jnd_4184a

信昌は「関ヶ原の合戦」にも参戦して、その直後に初代京都守護職に任命されました。さらに慶長6年(1601)には加納城主となり、10万石を与えられました。

Jnd_4096a

信昌は元和元年(1615)に亡くなり、当院に葬られました。本堂である方丈(右)の中央には開基・三江和尚の木像、その右に亀姫が持念仏としていた室町時代作の薬師如来坐像が本尊として祀られています。左には信昌と亀姫の位牌が安置されています。

Jnd_4174a

本堂には信昌の武勲をたたえる「長篠合戦図」が障壁画として残されています。部屋の中は撮影禁止ですが、「第51回京の冬の旅 非公開文化財特別公開 ガイドブック」の写真を掲載する許可を頂きました。

Img_20170208_0001b1

幕末の復古大和絵派の宇喜多(浮田)一慧(いっけい)の筆によるものです。一慧は尊攘派の志士で「安政の大獄」で捕らえられたことでも知られています。(本堂の前庭)

Jnd_4104a

本堂前庭は心字池を中心として、二段に刈り込まれた生垣の向こうに建仁寺本坊の建物や東山を望む池泉鑑賞式庭園です。池の周囲には、灯籠や置石に加えて、松、霧島ツツジ、皐月、百日紅、萩など多くの種類の植栽があります。

Jnd_4105a

前景に苔と白砂が敷かれています。平成12年(2000)中根史郎氏により池の改修が行われたそうです。向こうに法堂が見えます。

Jnd_4114a

開基の三江紹益(1572-1650)は洛北に生まれ、6歳で建仁寺塔頭・常光院の明室和尚の弟子となり、15歳で得度受戒しました。本堂の横に回ります。

Jnd_4136a

17歳で師が亡くなると、その遺命によって妙心寺塔頭の隣華院の南化玄興禅師に参じてその法を継ぎ、35歳で建仁寺の住持となりました。(本堂の南庭)

Jnd_4123a

52歳で高台寺の開山となり寺門の興隆に務めましたが、慶安3年(1650)に78歳で亡くなりました。(本堂と書院の間にある坪庭)

Jnd_4143a

山門の左にある鐘楼の梵鐘には、三江和尚の銘があり、寛永4年(1627)の信昌の13回忌にあたり、四男大和郡山城主・松平忠明が財を施し、三江が鐘を鋳造させ、鐘楼を建てさせたと記されています。

Jnd_4087a

久昌院の他の建物の年代を考察するうえで、この記録が基準となっているそうです。

Jnd_4146a

本堂の裏(西)に書院「高松軒」があり、12畳と8畳台目の座敷が設けられています。12畳の座敷の西南隅には2畳台目の上段の間を設け、花頭窓の付書院になっています。下の写真は久昌院のパンフレットから。

Img_20170208_0003a1

この座敷の北隣には3畳台目の小間の茶室「遠州別好ノ席」があります。手前座の中柱は大きく歪んだものを使い、床前正客の座の天井は船底型の化粧屋根裏、にじり口に至るまでのわずかな空間に屋根を設けるなど変化に富んでいます。(下はガイドブックから)

Img_20170208_0001c1

最後に亀姫のことを少し。長篠の戦いの後、亀姫(17歳)は新城城主・奥平信昌(22歳)に嫁ぎ正室になります。亀姫は新城城で約15年を過ごし、4人の男子(家昌・家治・忠政・忠明)と1女(千姫、大久保忠常の正室)をもうけました。

Jnd_4154a

信昌が加納城主となると亀姫も加納に移り、加納御前と呼ばれました。当時から亀姫は嫉妬深かったようで、亀姫に殺された侍女12名の霊を慰めていると伝わる十二相神が加納城近くにあるそうです。また、奥平信昌は生涯側室を置きませんでした。

Jnd_4122a

その後、忠政、宇都宮藩主の嫡男・家昌、そして夫の信昌らが相次いで死去すると、亀姫は剃髪して盛徳院と号し、幼くして藩主となった孫らの後見役になって宇都宮城に移りました。

Jnd_4131a

1622年、宇都宮城主の孫・松平忠昌が古河に移されると、亀姫は新しく城主となった本多正純を深く恨んだといわれます。後に、宇都宮釣天井事件(正純が将軍秀忠の暗殺を計画したとされる)が起こり、再び松平忠昌が宇都宮城主に返り咲きました。

Jnd_4169a

事件後、亀姫は加納城に戻り1625年に死去、66歳でした。本堂前庭の南東に墓地があり、入り口の上に見えている銅板屋根の建物が「霊屋」です。2.7m四方の小堂で奥平信昌夫妻の五輪石塔を安置しています(特別公開には含まれていません。)

Jnd_4173a

創建は奥平信昌の逝去(1615年)後まもなくと推定されています。亀姫が亡くなると、その1周忌に合葬されたことが、三江和尚の記録に残されているそうです。

Img_20170208_0002a1

Jnd_4159a

ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

  ★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

ガイドブックから

Img_20170208_0001a

|

« 雪景色 宝が池公園 | トップページ | 上徳寺 世継地蔵尊大祭 »

コメント

ガイドブックの緑の景色。
早く春が来てほしいですよね。

投稿: munixyu | 2017年2月 8日 (水) 09:21

京都にはつらい境遇ながらも力強い女性の話がいくつもありますね~。建仁寺の塔頭は両足院もそうですが、あのエリアで何でこんなに広々してるんだろう。。っていう所が多いですね。ココも祇園の街中にあるとは思えない!そして遠州好みの茶室ですか~。建仁寺はお茶祖栄西のお寺なのに茶室が有名なイメージがないですからこれは是非見ておきたいところ。。。そういえば、1月に行った時は特別公開の所に行ったのに、全部空振りしてしまいました(;´д` ) トホホ
3月に何とか行けたらいいなぁ。。。

投稿: ばるさろ | 2017年2月 8日 (水) 22:33

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 雪景色 宝が池公園 | トップページ | 上徳寺 世継地蔵尊大祭 »