秋の円山公園を遡る 2016
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現在京都の広い範囲で桜が見頃ということで、あちこち場所が変わりますが今日は円山公園です。
明治維新の廃仏毀釈による寺院の跡地を整備して、明治19年(1886)に京都市初の公園が造られました。八坂神社の北東にある鳥居から円山公園に入ります。
その公園は、安養寺の山号・慈円山から「円山公園」と名づけられました。「いもぼう 平野屋本家」の前を通って、公園の南西にある「市民の森」とよばれる一角に行ってみました。
「中井弘の胸像」 中井は薩摩藩を脱藩して坂本龍馬などの資金で英国に密航・留学しました。帰国後、英国公使パークス襲撃事件では身を挺して護衛、その後滋賀県知事として北垣京都府知事とともに琵琶湖水事業を完成、さらに京都府知事となり内国勧業博覧会を開催、平安神宮を造営しました。数々の奇行や逸話の持ち主ですが、これ以上紹介できません。
「丸山海道夫妻の句碑」 海道は、京都出身の俳人で俳誌「京鹿子」を創刊、父は鈴鹿野風呂。「朱の宮を 神は住家として 露けし」、佳子「傘さして きく花の鐘 父おん母おん」。近くの長楽寺と知恩院の鐘の音が「 ふぉん、ぼおん」と聞こえたとされます。
ここから山(東)の方に向かいます。この通りには料理屋が並んでいます。
桜の頃には花見席ができるところです。
「祇園枝垂桜」の前で。
池のほとりの「祇園小唄の碑」 この歌はマキノ映画「絵日傘」の主題歌で、作詞・長田幹彦、作曲・佐々紅花です。毎年11月23日にはこの地で「祇園小唄祭」が行われるそうです。
向こうに見えるのは「大正ロマン亭」、珈琲、蕎麦、スイーツなどいろいろあります。
池の反対側から。
池に流れ込む小川があります。かっては琵琶湖疏水の水が流れていましがた、今は地下水をくみ上げているそうです(この日は水がありませんでした)。
「坂本龍馬と中岡慎太郎の像」 昭和11年(1936)に京都高知県人会有志により建立され、大戦中に供出、昭和37年に再建。霊山護国神社の龍馬の墓の前にある像を拡大したものだそうです。
「京料理 いそべ」 上の銅像の右奥にあります。
先ほどの小川の源流を過ぎて、さらに石段を上がります。その途中にある、
赤穂藩医・寺井玄渓の「夢」の碑 玄渓は自身も討ち入りに加わろうとするも止められました。内蔵助たち旧知の同僚の切腹を知り、「人生ははかない夢のようだ」と感じて、近くの岩に「夢」の字を彫ったといわれています。
「東観荘」 かって安養寺の六つの塔頭「六阿弥」の一つがあった場所で、幕末の1860年に建てられた建物と広い庭園がある老舗料亭です。この道を北(左)にいきます。
「六阿弥」の一つ重阿弥では赤穂浪士が討ち入りを決定した「円山会議」が開かれました。「左阿弥」は、明治維新以降の御前会議(天皇が出席する重要会議)にも使われました。現在、左阿弥だけが残り、料亭として営業しています。
さらに坂道を上ると右手に「其中庵(きちゅうあん)」があります。家庭的な2組限定の宿で、朝食のみの片泊りの宿です。
「吉水(きっすい)弁財天堂」 安養寺の境外仏堂で「吉水さん」とも呼ばれ、かって霊泉が湧いていたそうです。そのため、この地が「吉水」とよばれたそうです。弁天財と共に宇賀神将尊を祀り、学術向上にご利益があるとか。
平安時代後期-鎌倉時代の建久年中(1190-1199)、青蓮寺の慈鎮(慈円)が安養寺を再興した際に、寺の鎮守として弁財天を勧請したのが始まりです。裏に「慈鎮の仏塔」(重文)があります。
道はさらに上り、向こうに安養寺の石垣が見えてきました。その手前に右に入る道があります。
「吉水」 料理旅館だった建物を使い数年前にオープンした片泊まりの宿です。余計なものを置かず、歯ブラシやタオルは客が持参、布団の上げ下ろしはセルフサービス、テレビはなく、冷蔵庫も共用のシンプルな宿だそうです。
「天青庵」 数十年もの間無人の家を、陶芸家・原口卓士さん夫妻が改装して数年前にオープンした片泊りの宿です。原口さんの作品が客室や外にも置かれていて、くつろげそうな雰囲気です。この前を通って「雨宝堂」まで石段が続いています。、
「雨宝堂」は、安養寺の本坊以外に現存するもう一つのお堂で、大聖歓喜天尊を祀っています。
もう一度、通りに戻って安養寺の山門に入ります。「安養寺」は正式名称を慈円山大乗院安養寺という時宗の寺院です。平安時代初期の延暦年間(782~806)に、桓武天皇の平安遷都の際に都の鎮護のために、最澄が創建した天台宗寺院と伝えられます。
平安時代末(1174年)から30数年間法然がここを本拠に称名念仏を興し(吉水教団)、親鸞もここで入信し、両上人念仏発祥の地としても知られています。
安養寺は室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)で廃絶しましたが、その後再興され、安土・桃山時代には豊臣秀吉により寺領が寄進されました。本坊には阿弥陀如来を祀ります。
1868年明治政府によって上知となり、境内の大部分や伽藍、塔頭の多くが失われ、境内は山の斜面の現在地に移されました。
安養寺の前の通りの突き当りは知恩院の大鐘楼です。そこから西に降りていきます。
向こうに東本願寺の大谷祖廟の門が見えてきました。
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