2016桜 法金剛院
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醍醐寺の枝垂れ桜の記事が続きましたが、今日は3月中に枝垂れ桜が満開となった法金剛院です。
「法金剛院」は、山号を五位山という、京都には数少ない唐招提寺に属する律宗の寺です。「蓮の寺」ともいわれていますが、四季を通じて様々な花が咲く寺でもあります。
双ヶ岡の南東、五位山の南に位置するのこの地には、平安時代の初めに右大臣清原夏野の山荘があって、その没後寺に改められて双丘寺と呼ばれました。
その後、文徳天皇の勅願によって大伽藍が建てられ天安寺と改められました。しかしながら、平安時代の中頃から火災などにより寺は次第に荒廃していきました。(本堂前にある紅枝垂れ桜が満開でした。)
平安時代後期の大治5年(1130)待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)は、寵愛を受けた白河法皇を追善するため、天安寺跡地に仁和寺の御堂を建立して、法金剛院と名づけました。(池のほとりにはもう一本の枝垂れ桜があります。)
待賢門院はここに極楽浄土を再現するかのように壮麗な伽藍を建立し、池泉回遊式浄土庭園を造りました。(最初に池の周囲を一周します。)
当時の法金剛院には、美貌の待賢門院と風雅な庭園にひかれて多くの歌人が集い、さながらサロンのような様相を呈していたといいます。
この枝垂れ桜は、紫がかった濃い紅色をしていて「待賢門院桜」と呼ばれています。
「青女の滝」 池泉に注ぐ水源として、巨石を用いて「青女(せいじょ)の滝」が造られました。青女は秋の神で、霜と雪を降らすのだそうです。昭和43年(1968)に発掘調査が行われ、滝が復元されました。
青女の滝は、日本最古の人造滝として昭和45年(1970)に国の特別名勝に指定されました。滝の水は鑓水を通り池に注ぎます。
女流歌人・待賢門院堀河(ほりかわ)の歌碑「長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物こそ思へ」 彼女は待賢門に仕え、その落飾とともに出家しました。
池泉には極楽浄土に咲く花とされる蓮が植えられ、境内の桜、菊、紅葉とともに花の名所となり、西行などの歌にも歌われました。正面の建物は車寄で大正5年(1916)の建築です。
待賢門院は絶世の美女といわれ、鳥羽天皇の中宮となり7人の子供をもうけましたが、後に、養父の白河法皇の子ももうけたともいわれています。向こう見える本堂は、江戸時代の元和3年(1617)に再建されたものです。
また、生家に仕えていた西行とも親しくなり、彼が出家した原因とも考えられています。池の南に来ました。
待賢門院は、譲位後の鳥羽上皇としばしばこの寺を訪れました。しかしながら、白河法皇が亡くなり、夫の上皇が美福門院得子(びふくもんいんなりこ)を寵愛するようになり、法金剛院で仏門に入りました。(池の西にある枝垂れ桜の下から。)
待賢門院は1145年に亡くなり、法金剛院の北の五位山中腹の花園西陵に葬られました。
(この桜も紅枝垂れですが、背後にみえる待賢門院桜よりも淡い色です。)
後に法金剛院で出家した娘の上西門院統子を訪ねた西行は、紅葉を見ながら待賢門院がいた時のことを想いだして、「紅葉みて君がたもとや時雨るらんむかしの秋の色をしたひて」。
上西門院も花園西陵そばの上西門院陵に眠っています。(池を一周して、この後本堂に上がりました。)
山科疏水、賀茂川、高野川の桜も見頃になっています。
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