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2016年10月17日 (月)

夕闇迫る吉田山を越える

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の記事で金戒光明寺と吉田山の麓にある4寺院を訪ねました。その後、吉田山の上にある二つの神社を通り、吉田神社に向かいました。上の宗忠神社の鳥居の横にある逆立ちした狛犬は備前焼でできているそうです。

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自転車で来たので上の石段ではなく、麓の4寺院前の通りの延長にある「宗忠神社車参道」を上ります。この坂道は吉田神社の裏参道にもなっている山越えの道です。

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峠の上から北には「竹中稲荷神社」の鳥居が並んでします。春は桜のトンネルとなる隠れた?花見の名所です。

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途中に見事な玉垣があります。

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竹中稲荷神社の創建時期などは不明です。在原業平の住居が神楽岡稲荷神杜の傍にあったという記録があり、平安時代初めの天長年間(824~834)には既にこの場所に社殿があったと考えられています。(正面に拝殿があります。)

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江戸時代末期には多くの参詣者で賑わい、参道に数千の鳥居が並び雨雪の日でも傘が必要 なかったといわれています。明治5年に吉田神社の末杜となりましたが、現在でも竹中稲荷講杜が組織され多数の講員がいらっしゃるそうです。

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祭神として、宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)、猿田彦神(さるたひこのかみ)、天鈿女神(あめのうずめのかみ)を祀り、商売繁盛のご利益があるとされます。

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左隣にある「天満宮社」 もと地福院に祀られていたのを幕末の嘉永5年(1852)現地に遷座し、明治5年に竹中稲荷神社とともに吉田神社の末社となりました。

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本殿の裏に回るとたくさんのお塚があります。多くは明治初期に建てられたそうですが、一番高いところに「奥ノ院 竹釼稲荷神社」、途中に「業平塚」もあります。昼でも少し薄気味悪い雰囲気がします。

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このあたりから「大文字」が間近に見えます。

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西に吉田山山頂への石段があります。

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吉田山はかって里山として薪や柴などを利用し、春は桜、秋は紅葉、松茸狩りの山として地域の人に親しまれてきたそうです。(霊元法王御幸址) 

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ところが昭和30年頃から柴や薪の利用が無くなり、里山としての手入れがされず、椎や樫などの常緑樹の大木が増えてきました。その結果山の環境が変化して、マツ枯れやナラ枯れも問題となってきたそうです。(三高寮歌の「紅萌ゆる丘の花」の歌碑)

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「吉田山の里山を再生する会」では、地域住民、大学、神社、企業などと協力して里山としての吉田山を再生する活動をしています。

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健全な森となるように補助的な伐採や捕植、低木や林床植物に十分な光が届くような手入れ、薪や腐葉土を持続的に利用する試みなどを行っているそうです。おかげで、このあたりから、西の方の視界が開けてきました。

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標高105.12mの三等三角点があります。ちなみに麓の標高は50~60m程度です。

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もう一度山越えの道に戻り、向かいの宗忠神社に入ります。「宗忠神社」は黒住教の教祖・黒住宗忠を祀る神社です。宗忠は、江戸時代の安永9年(1780)備前国(岡山県)の今村宮の神主の家に生まれました。この縁で、逆立ち狛犬は備前焼だそうです。

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文化11年(1814)の冬至の日、朝の太陽を拝しているうちに神人一体の霊感を受け、黒住教を創始したとされます。(吉田山に猿とはちょっとびっくりです。)

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以後宗忠は布教を重ね嘉永3年(1850)に亡くなり、幕末の安政3年(1856)朝廷から「宗忠大明神」の神号を与えられました。拝殿は昭和12年(1937)、本殿は明治46年(1912)に改築されたものです。

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文久2年(1862)高弟の赤木忠春が吉田神社からこの地を譲渡され、宗忠大明神を勧請して建立したのが宗忠神社です。幕末には朝廷の勅願所となり、二条家や九条家などの公家からも信仰されました。本殿には宗忠と天照大御神、八百萬神を祀っています。

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本殿の隣にある「忠春社」 忠春は美作(岡山県)の出身で、眼病のため失明しましたが、宗忠の教えによって視力を回復したといわれ、宗忠の死後京都で黒住教の布教に努めました。

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手水舎の「神井戸」 水は出ないといわれていた土地に忠春が掘り当てた井戸。神社に御神慮に適わぬことが起こると水が濁るといわれています。

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明治時代になり、大日本帝国憲法では信教の自由が明記されました。(大銀杏、紙には、銀杏(ぎんなん)を採ってもよいが、ここでは剥かないでくださいと書いてあります。)

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しかしながら、政府は国家神道は宗教ではないとの立場をとり、神道を他宗教の上において、神道を教育の基本に置き国民統合の支柱としました。明治5年(1872)には教務省を設けて神官と僧侶を教導職としました。

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神官教導職は東の伊勢神宮祭主、西の出雲大社大宮司のいずれかに属する(2部制)とすると両社の勢力争いの様相を呈し、さらに3部制、4部制も破たんします。その契機は、黒住教と神道修正派が教派神道として認められ、国家神道から独立したことにあります。

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教派神道とは幕末期に起こり、明治時代に教派として公認された13の神道系新宗教教団のことです。それらは、復古神道系、山岳信仰系、純教祖系に分類されます。,黒住教がいち早く公認されたのは、忠春の築いた人脈によるところが大きいといわれています。

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明治政府は神道事務局において神職の養成に力を注ぎましたが、相次ぐ教派神道の独立ににより、日本固有の思想の研究の必要性を認めました。そして、神道事務局から独立して東京に皇典講究所を設置し、後に國學院大學へと継承されました。

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コメント

ぎんなんかぁ。
まだだろうけど、そうだよね。
剥くのは、その場でやちゃうと外国の人が異臭で
通報しかねないもんね。
あれは強烈過ぎる。

投稿: munixyu | 2016年10月17日 (月) 13:34

黒住教の建物を、ついこの前行った笠岡で見て、最近できた新興宗教かしらん。。。なんて思ってたら、案外歴史があるほうなんですよね。廃仏稀釈で仏教がダメージを受けてる間に、神道は無傷でうまくいくか。。と思えはこちらもこちらで何やらうまく行かなかった。。。ってとこですかねぇ。明治政府は宗教をうまい具合にコントロールしようとしたけど、結局失敗したって感じが一番しっくりくるかも。。。そういえば玄武=船岡山と言いますが、吉田山は船岡山よりもパワースポット感がありますね~。まぁ来たというよりは鬼門という感じでしょうか。。

投稿: ばるさろ | 2016年10月17日 (月) 19:51

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