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2016年10月15日 (土)

東本願寺 岡崎別院

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日まで吉田山の麓の寺院を巡ってきましたが、今日はちょっと寄り道をして岡崎神社の西隣にある東本願寺(真宗大谷派)の岡崎別院を訪れます。

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江戸時代に流布した親鸞の伝記『親鸞聖人正統伝』によると、親鸞は29歳で比叡山を下り、この地に草庵を結び吉水の法然のもとに通ったと伝えられています。鎌倉時代初めの1201年頃のことでした。

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法然上人の草庵は現在の円山公園の東にあり、後にその跡地に最澄が「安養寺」を創建しました。安養寺の支院の一つが現在料亭「左阿弥」になっています。

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1207年の「承元の法難」により、親鸞は越後に流罪になりました。(本堂には本尊の阿弥陀如来を祀っています。)

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この法難は、法然の吉水教団が既存の仏教教団に弾圧され、後鳥羽上皇によって専修念仏の停止(ちょうじ)と、法然の門弟4人の死罪、法然と親鸞ら中心的な門弟7人が流罪になった事件です。

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親鸞は配流の際に名残を惜しみ、当庵の池に自らの姿を映したといわれています。その池は本堂の西側にあり、「鏡池」また「姿見の池」とよばれています。後世の金子大榮を中心とした勉強会「鏡池会」はこの池の名に由来しているそうです。

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承元の法難は、北嶺(叡山)と南都(興福寺)が専修念仏の停止を訴えたことが契機でしたが、当初、朝廷は内部に信者もいて必ずしも積極的ではありませんでした。(御殿)

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「八房の梅」 鏡池の向かいにあり親鸞お手植えの梅の木の子孫とされます。現在次の世代を担う「八房の梅」を生育しているところだそうです。

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ところが、後鳥羽上皇が寵愛する「松虫」と「鈴虫」という側室が御所から抜け出して、安楽房と住蓮房の『六時礼讃』の法会に参加し、出家してしまいました。さらに、彼女たちは説法を聞くためとして上皇が不在の御所に彼らを招き入れたとされます。(寺務所)

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後鳥羽上皇は憤怒して、1207年2月に専修念仏の停止を決定し、住蓮房と安楽房に死罪を言い渡しました。さらに、怒りが治まらない上皇は、法然と親鸞ら7名の弟子を流罪に処したのです。

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境内の西にある庭園を見に行きます。建物は「大谷専修学院 岡崎学舎」です。庭園は池が大きな面積を占める池泉回遊式で、自由に入ることができます。

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池の中央に「必度橋」が架かっています。大谷専修学院元院長・信國淳師により命名され、法然・親鸞に大きな影響を与えた中国浄土教の善導大師の言葉「すでにこの道あり、必ず度すべし」に由来しているそうです。

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橋を渡ったところに、かって二階建ての茶室「延賞台」がありました。延賞台八景として幾多の詩歌にうたわれましたが、第二室戸台風で倒壊してしまいました。

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その後、法然に赦免の宣旨が下り、1211年11月に入洛の許可が下りました。法然はようやく都に戻ることができましたが、その2ヵ月後の1212年1月に亡くなりました。(池の北東には東屋があります。)

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親鸞に対しても1211年11月に赦免の宣旨が下りました。ところが、京に帰るために雪解けを待っている間に法然は亡くなり、師との再会はかないませんでした。

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そのため親鸞は京には戻らず、越後から東国に赴き、そこで約20年間布教活動をしました。この時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれ、常陸や下野などで寺院を開きました。それらは今なお43寺が現存し、「二十四輩寺院」とよばれています。

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親鸞は62、3歳の頃に帰京して岡崎の草庵に戻り、著作活動に励みました。その草庵は人々に親しみを込めて「親鸞屋敷」とよばれました。

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時代は下り、江戸時代後期の1801年、東本願寺第20代・達如上人は、親鸞屋敷の跡地に寺院「岡崎御坊」を創建しました。現在の伽藍はその時の建立とされます。(庭園の東には書院(左)と茶室(右)があります。)

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茶室の「翠雲亭」は、本堂とほぼ同じ時期に達如上人により創建されたと伝えられています。先ほどの「延賞台」もこのとき建てられたようです。

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明治時9年(1876)、「岡崎御坊」は「岡崎別院」と改称されました。

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同22年(1889)新門の学問所である御学館「清池館」が移築されました。ここでは、彰如上人(句仏上人)が学び、同24年(1891)には清澤満之が主任になりました。「清池館」は現在、輪番所・専修学院別科生の部屋となっていて、池の東にあります。

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また大正5年(1916)には金子大榮を中心に、学生の勉強会「鏡池会」が発足し、曾我量深などを輩出しました。金子大榮は大谷大学、東洋大学、広島大学などの教授を務め、多くの著書があります。曾我量深は仏教思想家でもあり大谷大学学長を務めました。

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コメント

まだ色づきはほとんどないけれど、
何かが変わっていく。紅葉の匂いがする晩秋だよね。

投稿: munixyu | 2016年10月15日 (土) 10:08

親鸞屋敷ですね~。入っていいのか悪いのか。。。って感じの門構えで、スルーしてしまいましたw しかし。。。大原談義で法然はある程度認知されたんだろうと思っていたのですが、この法難はそれよりもだいぶ後の話だったんですねぇ。むしろ意趣返し的なこともあったのかなぁ。。。などと考えてます。鈴虫・松虫の件は南都・北嶺には批判の絶好の機会だったのかも。。。となると、ありがたい宗教の話というより、ただの人間の勢力争いになってしまっている所がなんともはやw

投稿: ばるさろ | 2016年10月16日 (日) 08:04

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