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2016年9月24日 (土)

百萬遍知恩寺 浄土宗最初の寺

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の光福寺を出て百万遍にある知恩寺に来ました。今まで手作り市や季節の花で記事にしてきましたが、その由緒や境内の建物をちゃんと説明するのは初めてかも知れません。

「百萬遍知恩寺」は長徳山功徳院という号をもつ、浄土宗大本山の一つです。

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平安時代末の1175年、法然上人は専修念仏を重んじる立場から浄土宗を開き、比叡山を下りました。上人は賀茂の神宮寺を居として、洛中の人々に念仏を説いて布教を行いました。(山門を入った左奥に「吉祥天」が祀られています。石灯籠には「吉祥前」とあります。)

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法然の庵の「功徳院」は現在の相国寺付近にあり、当時「賀茂の禅坊」ともよばれていました。(「阿弥陀堂」 江戸時代後期の1811年に建立され、阿弥陀如来立像を安置しています。)

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法然上人は鎌倉時代前期の1212年に亡くなりました。その後の1234年、法然上人の直弟子勢観房源智上人が師の恩徳に報いるために、その地に御影堂を建て功徳院を再興して、「恩」を「知」る寺、「(功徳院)知恩寺」と名付けました。

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鎌倉時代末の1331年都に地震の後に疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅命により、第8世善阿空円が宮中で7日7夜百萬遍の念仏を唱えたところ、疫病が治まったといいます。その効験によって、天皇から「百萬遍」の勅号と弘法大師御作の大利剣名号軸および540顆の念珠を賜りました。仏足石

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「石経」 阿弥陀経石ともいい、板石に阿弥陀経を陰刻した珍しいものだそうです。江戸時代中期の1714年、筑前国善導寺にあった石経を模刻したものとされます。

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「釈迦堂」は江戸時代前期の1664年に本堂(祈祷堂)として建立され、釈迦如来座像を安置しています。京都三大釈迦堂の一つで「今出川釈迦堂」とよばれました。

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後柏原天皇の宸翰「知恩寺」の篇額がかかっています。 

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「猫間塚」 平安時代後期の勧修寺家の祖、猫間中納言清隆の墓とされますが、しばしば猫の墓と間違われてきたそうです。

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「御影堂(本堂)」 現在の建物は、江戸時代食の1667年第39世光誉萬霊上人が時の将軍から金500両を賜り、更に全国を行脚して建てたものです。

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本尊として釈迦如来を祀っています。本堂に安置されている木造阿弥陀如来立像は、作風・技法等から快慶作と推定されるといわれてきました。

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時代を戻りますが、後醍醐天皇から勅号と大利剣名号軸および念珠を下賜された後、百萬遍知恩寺と号するようになり、諸祈願の法会として大利剣名号軸を掲げ、僧俗が輪になり念佛を唱えながら大念珠を繰る作法「百萬遍大念珠繰り」が生まれました。

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大念珠繰りは全国各地に広がり、特に京都では大念珠繰りの寺「百萬遍さん」と親しまれるようになりました。上の本堂の写真で大念珠がかかっているのが見えます。(鐘楼、本堂の周りを西から一周します。)

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鐘楼の北にある「鴨明神社(かもみょうじんのやしろ)」 知恩寺がかって神宮寺にあった名残を伝える鎮守社です。源智上人が知恩寺を再興した後洛中を転々としましたが、この鎮守社も一緒に移転したようです。

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「百萬弁財天」 ちょうど本堂の西にあります。鬼瓦がアニメの「きかんしゃトーマス」に出てくる「ディーゼル10」にそっくりと一部で話題になっているようです。

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境内の北西には寺務所/庫裏(左)や玄関(右)があります。

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百萬遍知恩寺は、南北朝時代には足利義満による相国寺建立にともなって、一条通小川に移転し、室町時代の1467年、応仁の乱により焼失しました。

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その後、後花園上皇や後柏原天皇の帰依を受けて再興が続けられ、1479年に本堂が再建されました。(本堂の北西角にある収蔵庫?。)

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本堂の北東にある「小方丈」、2011年に法然上人八百年大遠忌を記念して小方丈の南側に庭園が作られたそうです。

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その後も合戦による焼失と室町幕府による再建、内部における本家争い、知恩院との争い、天文法華の乱での焼失、御霊通大火による焼失などがありました。(「納骨堂」 本堂の東にあり、栗の実がいっぱい落ちていました。)

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安土桃山時代になると豊臣秀吉により山城国深草村の30石を朱印地として寄進され、都市改造によって梨木神社のあたりに移転しました。

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徳川幕府には浄土宗は手厚い保護を受け、特に知恩院の尊照と増上寺の存応が家康の崇敬を受けました。1627年、寺院諸法度の一環として浄土宗法度が制定され知恩寺は「小本寺」に落とされました。大本山、中本山より格下の本山です。

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1662年、39世光誉満霊上人の時に現在地に移り、1664年に釈迦堂が本堂として建てられ、1679年には一応の再建が完了しました。江戸時代後期になり、勢至堂、方丈、納骨堂が移され、阿弥陀堂(念仏堂)が建立されました。(「勢至堂」 納骨堂の南にあります。)

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明治時代になり知恩寺は大本山に復帰しましたが、明治政府の上知令により他の大本山とともに寺領、寺地の多くが没収されました。境内の東(一筋右の道)には塔頭寺院が並んでいます。

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昭和の1982年、法然上人坐像胎内から法然の遺髪、遺骨が発見されました。また、1995年、御影堂、釈迦堂、阿弥陀堂が京都府指定文化財となり、2008年西脇檀安置の阿弥陀如来立像が快慶作であることが確認されました。

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1986年に京都市在住の臼井さんと榎本さんが境内で青空個展会を企画し、以後「手づくり市」として現在まで続いています。山門の右手にある「百万遍保育園」

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コメント

燃えて再建も京都文化だよね。
寺に保育園、これも文化。
やっぱり京都は文化の街、いいもんだよね。

投稿: munixyu | 2016年9月24日 (土) 11:50

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