夏の銀閣寺 銀閣と庭園
←目次 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日の記事の浄土院を出て銀閣寺に入りました。「銀閣寺」は正式名称を慈照寺、山号を東山(とうざん)という臨済宗相国寺派の寺院です。
室町時代の1449年浄土寺が焼失しました。1473年室町幕府8代将軍・足利義政は将軍職を退き、浄土寺跡に山荘の造営工事を始めました。(下は「銀閣寺垣」)
後土御門天皇から、山荘に東山殿という名が贈られました。1483年には常御所が建てられ、義政が移り住んだといいます。(拝観受付の横にある「中門」)
1486年義政の持仏堂の「東求堂」、1489年「観音殿」(銀閣)が完成し、東山文化とよばれる粋をつくした数々の仏殿、邸宅や庭園が造られました。そして、1490年義政が山荘で亡くなると、その遺命によって東山殿は寺に改められました。

「銀閣」(国宝) こけら葺き二層建てで、下層は心空殿と呼ばれる書院造りの住宅風、上層は潮音閣と呼ばれる禅宗仏殿風の部屋となっており、観音像を安置しています。拝観順路の最初に近くを通ります。手前は「錦鏡池(きんちょうち)」。
庭園には、義政の浄土信仰が反映され、作庭は義政が重用していた善阿弥の子・小四郎、孫・又三郎、配下の彦三郎、左近四郎などによると考えられています。「北斗石」と「分界橋」
建築資材や庭園の樹木は、小川御所、室町殿跡、仙洞御所跡などから調達、あるいは、武将、公家、寺院から寄贈されたといいます。石橋の向こうに「浮石」
銀閣の脇に寺の鎮守の「八幡神」が祀られています。
建物と庭園は、江戸時代初期の1615年に宮城丹波守豊盛、1639年にその孫・豊嗣により大幅に改修されました。下は「向月台」 白川砂で造られた盛砂で、銀閣からの眺めを考慮した、あるいはこの上から月を眺めたとかいわれています。
白川砂の向月台や「銀沙灘(ぎんしゃだん)」が造られたのは江戸時代の改修時です。(手前が銀沙灘、左は本堂(方丈)、右は東求堂。)
反対側は「花頭窓」、その向こうに銀沙灘。
「本堂」(京都市指定文化財) 江戸時代初期に宮城豊嗣により再建され、本尊の宝冠釈迦如来坐像が祀られています。
銀沙灘の白川砂は光をよく反射し、月光を部屋に導く役割もあったといわれています。
天気がよいときに写真を撮ると、銀沙灘が明るすぎて後の処理が面倒になります。
本堂と東求堂の間にある「銀閣寺型手水鉢」 江戸期の作で、側面の模様が僧侶の袈裟の文様に似ているので、袈裟型手水鉢ともいわれています。斬新な意匠から様々なコピー が作られたそうです。
「東求堂」(国宝) かつて足利義政の持仏堂として阿弥陀三尊像を安置していました。現在は、室町時代の秘仏・「阿弥陀如来立像」、および、没後間もなく造られた法衣姿の「足利義政像」が安置されています。
錦鏡池を渡って山の斜面に向かいます。左に「座禅石」が見えます。
山裾から湧き出る「洗月泉(せんげつせん)」 洗月は水面に映る月をさざ波で洗うという意味だそうです。
いつからかトレビの泉のようになっています。
錦鏡池の向こうにさっき渡った石橋が見えます。
対岸に東求堂、手前に中の島の「白鶴島」があり、その左に石橋がかかっています。
東求堂が近くなってきました。白鶴島には三尊石が建てられ、右にも石橋があります。三尊石は鶴の頭で、左右の石橋は翼を表しているとか。
山裾の順路に沿って東求堂の横まで来ました。ただし、手前の道は通行できません。
後ろを見ると「弁財天」が祀られています。最初に通った八幡神とともに、7月中旬に「八幡・弁天祭」が行われているそうです。
順路は山の斜面を上りますが、続きは次回にします。

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コメント
夏の銀閣寺は涼しそうでいいよね。
静けさがシーンと、聞こえてきそう。
投稿: munixyu | 2016年8月 6日 (土) 11:13