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2016年6月13日 (月)

大石神社 赤穂事件と忠臣蔵

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の折上稲荷神社を出て、久しぶりに大石神社を訪れました。

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「大石神社」は、昭和10年(1935)浪曲師・吉田奈良丸の提唱を受けて、当時の京都府知事が大石神社建設会の会長となり創建され、忠臣蔵で知られる大石内蔵助良雄を祀っています。この近くに内蔵助の隠れ家があったそうです。

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吉田奈良丸の叙勲を祝い、当時の岸大阪府知事が「耐雪梅花香」と揮豪した記念碑があります。

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忠臣蔵はおなじみの物語ですが、そもそもの事件は「赤穂事件」と呼ばれています。

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すなわち、元禄期に江戸城松之大廊下で、高家旗本の吉良上野介に斬りつけたとして切腹に処せられた播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭に代わり、家臣の大石内蔵助以下47人が吉良を討った事件を指します。

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後に、この事件を基にして人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』をはじめ、様々な作品が作られ、その創作作品の総称が「忠臣蔵」と呼ばれています。

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創作作品のため、事実と異なる点や、史実にはない物語が作られるのは当然のなりゆきです。

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例えば、浅野内匠頭が殺傷事件を起こした原因、吉良上野介の人物像、大石内蔵助をはじめとする赤穂義士たちの行動や討ち入りに至った意図などです。

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事件が起こった後の元禄期には既に、事件の真相について(儒)学者たちの間で様々な見解が出されました。

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その論点の中心は、内蔵助らの行動が「仇討ち」なのか、彼らが義士として賛美すべきものなのかという点でした。当時の多くの儒学者は、内蔵助らの行動が仇討ちとはいい難く、幕府の裁定が正しいと主張しました。

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たとえば、佐藤直方や荻生徂徠は事件の発端は喧嘩ではなく内匠頭の一方的な暴力で、彼は幕府に処罰されたのであるから、吉良上野介はそもそも主君の仇討ちの相手ではないと主張しました。

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また佐藤は、内蔵助らは吉良邸討ち入りの後に自主的に切腹すべきで、そうせずに幕府に報告にあがったのは、生きながらえて禄をはむためではないかと批判しています。

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実際、事件の30年前に宇都宮藩を脱藩した奥平源八が、父の仇の同藩の元藩士奥平隼人を討った「浄瑠璃坂の仇討」が起こりました。源八の一族40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包んで奥平家に討ち入りました。(鳥居の横に「大石良雄像」)

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源八らは、幕府に出頭して裁きを委ね、幕府は本来ならば死罪であるところを伊豆大島への流罪という寛大な処分を行いました。 そして、恩赦後に彼らは他家へ召抱えられました。「天神うし」

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一方、太宰春台は、浅野は吉良を傷つけただけなのに浅野を切腹に処したのは幕府の処罰が行き過ぎである。内蔵助らは吉良ではなく幕府を怨むべきで、彼らは幕府の使者と一戦を交えた後、赤穂城に火を放って自害するべきだった主張しました。

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幕府の使者とは、赤穂城を明け渡すよう申し渡す使者のことです。幕府も批判する、ある意味で過激な春台の主張に対し、幕末まで議論が続いたそうです。

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「義人社」 大坂の豪商・天野屋利兵衛を祀っています。利兵衛は、赤穂藩出入りの商人で、内蔵助らの潜伏を支援し、吉良邸討ち入りの際には武器を調達したといわれています。

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上で述べた学者たちの議論とは別に、「忠臣蔵」は庶民感情に受け入れられ、その人気は現在に至るまで続いています。(鳥居の横には枝垂桜の巨木があります。)

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「大石桜」と呼ばれるご神木で、かって内蔵助の隠れ家にあった桜を移植したものといわれています。4月には「さくら祭」が行われます。

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明治時代、日露戦争後の国家主義的思想の高揚とともに忠臣蔵ブームが起こりました。この頃盛んになった浪曲や活動写真(映画)を通じて、義士の武士道や犠牲精神が鼓舞されました。

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大正デモクラシーの時代には、忠義よりも人間的な側面に焦点をあてた作品も誕生しますが、大正末期になると浪花節などのラジオ放送によって再び忠臣蔵ブームが起きます。(本殿前の鳥居を出ると正面に拝観無料の「忠臣蔵宝物館」があります。)

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一方、忠君愛国的な義士像や内蔵助の偶像化を批判するような小説が登場するのもこの頃です。(それほど狭くはない部屋ですが、忠臣蔵に関する様々な資料が陳列してあります。)

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昭和10年代前半の日中戦争前後に再び忠臣蔵ブームが起こりました。この頃の特色は天皇制を意識したもので、登場人物が天皇を崇拝していたという作品も登場しました。

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日中戦争から太平洋戦争になると、義士精神が国民の道徳的規範であるとされました。このような活動の中心となったのが「中央義士会」でした。戦争末期には忠臣蔵が米英への仇討ちと国家への絶対的忠誠の手本とされました。

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この神社が創建された時代(昭和10年)の背景を説明しようとしてちょっと説明が長くなりました。創建には義士会も協力したそうです。(ここには人気の「ポニー」がいるはずですが、午前中の雨でよそに行っているそうでした。)

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「忠臣蔵」をフィクションと割り切れば、この神社の歴史ロマンあふれる雰囲気を楽しむことができます。

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 6 醍醐 山科」カテゴリの記事

コメント

結構新しい神社だったんですね~~知らなかった!
忠臣蔵の流れはなんとな~く分かってるつもりでしたが、こんなに喧々諤々の議論が続いていたとは知りませんでした。どっちにしろ庶民が求めていたのは討ち入りの大立ち回りのシーンってことかもしれませんが。。。今は本所に吉良邸跡の小さな石碑。浅野内匠頭の切腹したと言われる奥州一之関藩田村右京太夫の上屋敷のあったあたりにも石碑があります。泉岳寺はさらに南。本所から吉良の首級を主君の墓前に供えるために歩いたそうですが、結構な距離ですw東京でも江戸歴史散歩はできるんですが、形の残っているものが少ないので、想像力がかなり必要!

投稿: ばるさろ | 2016年6月13日 (月) 21:53

★ばるさろさん こんばんは♪
現在でも12月になると必ず忠臣蔵のドラマや映画、特集番組をしますね。登場人物のほとんどが実在の歴史上の人物で、善人、悪人と決めつけているのは、私にはちょっとひっかかるものがあります。

投稿: りせ | 2016年6月13日 (月) 23:25

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