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2016年5月29日 (日)

詩仙堂 花咲く庭園2016

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

情報によればサツキが見頃とのことで詩仙堂に行ってきました(5月27日)。ところが、ご覧のとおり満開には少し早かったようで、今日は庭園に咲いていたいろいろな花もあわせてお届けします。

「詩仙堂」は江戸初期の文人・石川丈山が隠棲した山荘跡で、曹洞宗の寺です。山門には丈山の筆による「小有洞」の扁額がかかっています。

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丈山は安土・桃山時代(1583年)三河・徳川家の家臣の家に生まれました。武芸に優れ、関ヶ原の戦い(1600年)で戦功をあげ家康の信望を得ました。

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ところが、旗本として出陣した大坂夏の陣(1615年)では、禁じられていた先陣争いをして家康の機嫌をそこね、浪人となってしまいました。

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丈山は剃髪して妙心寺に潜居し、儒学者・藤原惺窩(せいか)門下となり儒学を学びました。この頃、文武に優れるとの評判になり、各所から士官の誘いがありましたが、応じるつもりはありませんでした。

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しかしながら病気がちの母を養うために、和歌山の浅野家に仕官し、その後浅野家の転封に従って安芸(広島県)赴き、そこで13年ほど過ごしました。(本堂から)

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母が亡くなると引退を願い出るも許されず、強引に退去して京に出て、寛永13年(1636年)に相国寺の近くに睡竹堂をつくり隠棲し始めました。その後寛永18年(1641)に、洛北の一乗寺村に「凹凸?(おうとつか)」を建て終の棲家と定めました。

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このとき、中国歴代の詩人を36人選んで三十六詩仙とし、狩野探幽に肖像を描かせて堂内2階の四方の小壁に9面ずつ掲げました。そのため凹凸?は詩仙堂の名で知られるようになりました。(書院から本堂の方)

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「洗蒙瀑(せんもうばく)」 丈山の作庭時からあり、蒙昧(物事の道理に疎いこと)を洗い流す滝という意味だそうです。この水が庭を流れていきます。

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いつもは書院から庭に下りるのですが、この日は玄関を出て本堂の横から庭に出ます。

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本堂の2階には座敷があり、3階には「嘯月楼(しょうげつろう)」があります。かっでは楼上から洛中や大坂城まで眺望できたといいます。石段を上ると、

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向こうは書院、右手に洗蒙瀑があります。庭園は3段になっていて、ここが上の段、上の写真が中段です。

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丈山は江戸初期における漢詩の代表的人物であるだけでなく、儒学、書道、茶道にも精通していて、煎茶の祖ともいわれています。

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作庭にも長じたといわれ、東本願寺枳殻邸(渉成園)の庭園は丈山の手になるものと伝えられています。中段の東端にある「鹿(しし)おどし」は丈山が考案したものとか。

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丈山の庵には、林羅山、尾形乾山、霊元天皇などが訪れ、角倉素庵や小堀遠州とも親交があったといいます。(中段の庭に小さな池があり、周囲にいろいろな花が植えられています。)

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中でも親しく交わったのが、松花堂昭乗と佐川田喜六で、一休寺(酬恩庵)の庭園はこの3人の合作によると伝ええられています。(中段の庭は「百花塢(ひゃっかのう)」といい、塢は土手や壁面に囲まれた平地という意味だそうです。)

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後水尾上皇からお召しがあったとき、「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波たつ影は恥かし」と詠んで断った話はよく知られています。

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丈山は清貧を旨として学問に没頭し、この庵で30数年を過ごして寛文12年(1672年)に90歳で亡くなりました。

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さらに西に行くと少し開けた場所があり、北には茶室「残月軒」があります。ここから西南と西に通路があり、どちらも一番下の庭園に下ります。

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西南の方の道に行くと「丈山菊」がありました。

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山の斜面に句碑があります。大正から昭和にかけての俳人・鈴鹿野風呂「さにづらふ  紅葉の雨の  詩仙堂」

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一番奥にある「供養塔」、丈山のものかどうか分かりません。ここから北西に道が続いています。

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新しく建てられた客殿の「十方明峰閣(坐禅堂)」です。

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毎年5月25日~27日の期間「石川丈山翁遺宝展」が開かれ、丈山の詩集や遺愛品などが一般公開されます。 5月23日が丈山忌だそうです。

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ところで、丈山が鷹が峰の本阿弥光悦、八幡の松花堂昭乗とともに、江戸幕府の意を受けて朝廷や公家の監視をしていたのではないかという説があります。

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確かに、林羅山や小堀遠州など幕府のブレーンだった人物らと親交があり、若いころ家康に寵愛されたという過去があります。(帰りは東の石段を上がり中段の庭に戻ります。)

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また、この庵や庭園の建造費やその後の30余年間の生活費を収入のない丈山がどうして工面したかという疑問をもたれました。

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3階建ての嘯月楼から修学院離宮の後水尾上皇の動向を監視していた、そこから狼煙をあげて光悦や昭乗と通信していたなどという歴史家もあります。(途中に竹林があります。)

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ところが、歴史学者・山本四郎氏は著作で、丈山が隠密だったという説の根拠がいずれも正しくないと述べています。さらに、丈山が浅野家に仕えた十数年間は二千石の禄高があったそうです。

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また、丈山はこの庵に来てから一歩も外出しないで過ごしたのではないかともいわれています。いずれにしても、丈山が多才で様々な分野で足跡を残す一方で、私生活は謎の多い人物だったようです。

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コメント

そうですか。
詩仙堂から大阪城まで見えたのですか。
丈山さんは本当はどんな方だったのでしょうね。

昨日の二条城の真東にある知恩院のお話といい、
面白いです。
わくわくします。

ここでしっかり歴史を学べば良いのに、時代物の本に
流れてしまって(笑)。

投稿: 8mama | 2016年5月29日 (日) 10:27

まだ入れていない所の一つです。入口はこぢんまりしているのに、中は広々ってのは隠れ家的で楽しいですよね~。
石川丈山のことはあまり良く勉強してないので、そろそろちゃんと覚えないと。。。なかなか波乱の人生だったようですが、最後に京都って気持ちは共感!w二千石だと現在でも億レベルの収入ってことでしょうかね。。。となると母親の介護等があったにしても、京都でそれなりの余生を暮らす蓄えはあったとみるべきかもしれないですね。歴史は時々大きく書き換わることもあるので、真偽はわかりませんが、法華勢力のけん制の為に、遠い鷹峰に光悦を追いやったって話もあるので、隠密説よりは、武家社会に嫌気がさした者同士気が合った。。。なんて方がありそうな気もします~

投稿: ばるさろ | 2016年5月29日 (日) 22:58

★8mamaさん こんにちは♪
コメントありがとうございます。色々な寺社の由緒を知らべていると、一度ちゃんと歴史を勉強しなければと思います。断片的な知識の寄せ集めが、なかなか歴史の流れにつながりません。歴史を扱ったテレビ番組や読み物は好きなのですが、本当の史実なのかフィクションなのかが区別がつかない状態です。

投稿: りせ | 2016年5月30日 (月) 17:47

★ばるさろさん こんにちは♪
そういえば、芭蕉も隠密だったのではないかといわれていましたね。当時からこのような隠密説がささやかれていたそうで、徳川幕府の監視体制が厳しく人々が疑心暗鬼だったのかも知れませんね。

投稿: りせ | 2016年5月30日 (月) 18:09

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