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2016年5月12日 (木)

比叡山延暦寺 横川地域 2016

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の比叡山の西塔を後にして、シャトルバスで横川にやって来ました。

「横川(よかわ)」は、 西塔から北へ4kmほどのところにあり、第3世天台座主の慈覚大師・円仁によって開かれた地域です。

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緑いっぱいの道をしばらく歩くと、向こうに小さな池がありそのほとりに「龍ヶ池弁財天」があります。かつて大蛇が坂本や仰木に現れ、悪事を働いたといいます。

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元三大師・良源が、神通力があれば大蛇になれというと、大蛇は大きくなってみせました。今度は小さくなりこの手の上にのれというと一寸足らずになり、良源は蛇を握り潰し、この池に封じ込めたといいます。後に弁財天が祀られ蛇はその使いなったともいいますj。

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その前に「横川中堂」があります。横川の本堂にあたります。舞台造りで、全体的に見て遣唐船が浮かんでいる姿に似せて造られているとされます(TOPの写真も)。

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平安時代の848年、円仁により建立されましたが。信長の焼き討ちにより焼失、1584年に秀吉が再興、1604年に淀殿により改修されました。昭和17年(1942)に落雷により焼失して昭和46年(1971)に現在の建物が再建されました。

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堂の中央部が2m程下がっていて、そこに本尊として円仁作と伝えられる聖観音菩薩が祀られています。

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「一念寺跡」 かつて横川中堂のそばに政所(まんどころ)が置かれ、横川の事務を行っていましたが、台風による倒木で倒壊したといいます。

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記事の最後にある「お願い」をよろしく。

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横川中道から鐘楼に向かう参道

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両側に西国三十三か所の石仏が祀られています。

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参道の途中にある「虚子之塔」 昭和28年(1953)に建立された高浜虚子の生前墓で、没後に遺骨が分骨されました。俳人で小説家である虚子は、比叡山をこよなく愛し何度も訪れ、一念寺に籠り小説『風流懺法』を書きました。

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比叡山を詠んだ俳句が90首以上あるそうで、この句碑には「清浄な月を見にけり峰の寺」

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参道の突き当りにある鐘楼は工事中でした。ここから右(写真では向こう)の道を行くと、

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「恵心院」 恵心僧都源信の旧跡、念仏三昧の道場で、阿弥陀如来を祀ります。源信はこの恵心堂で『往生要集』や『二十五三昧式』などを著わし、後の浄土宗や浄土真宗などの源となる日本浄土教の基礎を築きました。

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『源氏物語』の「賢木」の巻で、光源氏は天台座主により受戒し横川僧都によって剃髪します。「手習」の巻では、三角関係に悩んだ浮舟が入水しようとして、横川の「なにがしの僧」に救われて尼となます。これらの僧は源信がモデルだといわれています。

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もう一度鐘楼の前まで戻り真っすぐ行くと、坂の下にお堂が見えてきます。

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「四季講堂(元三大師堂)」 この地は慈恵大師(良源、元三大師)の住居跡と伝えられています。元三大師堂は、康保4年(967年)、村上天皇の勅命によって四季に法華経が論議されたことから四季講堂とも呼ばれています。

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現在の本堂は江戸時代1652年に後水尾天皇の勅願により再建されたものです。

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良源は、身分は低い方でしたが学識に優れ次第に頭角を表し、最後には天台座主となりました。正月三日に亡くなったので元三大師とも呼ばれ、没後は元三大師信仰が生まれました。また、「おみくじ」を考案したとされ、ここはおみくじ発祥の地ともいわれています。

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全国で流行した疫病の災難を救うため良源が禅定に入ると、骨ばかりの鬼の姿に変わりました。弟子にこの姿を絵に写させ版木で彫って札に刷りました。このお札は魔除けの護符として今でも授与されています。このため良源は角大師ともいわれています。

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四季講堂から帰る途中で横川中堂の横を通ります。ここからの方が船の形に見えるかも知れません。

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横川中堂の向かいに「根本如法塔(横川如法塔)」への石段があります。円仁は3年に渡り法華懺法、四種三昧を行いここに如法塔を建立し、法華経8巻を納めたといいます。源信は、釈迦如来、多宝如来を祀り法華経1000部を埋めました。

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信長の焼き討ちにより焼失し、大正14年(1925)に実業家・山口玄洞により再建されました。再建時の調査で一条天皇中宮の上東門院彰子が納めた金銅経箱「宝相華唐草手彫経箱」(国宝)などが発掘されました。

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最後の東塔地域を訪れるためにバス停に戻ります。

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コメント

不思議な事で、夏になるほど静けさが増し、
冬になるほど音が増す感じだよね。
夏の山。緑がいいね。

投稿: munixyu | 2016年5月12日 (木) 20:55

横川中堂の朱塗りの舞台の柱がとってもオシャレ~~。創建当時もこんな感じだったとしたら。。
山の奥に近代建築が忽然と現れる感じだったんだろうなぁ。。。
西塔もまだ行ってないので、もちろん横川もまだなんですが、ここも見るべきところはいっぱいですね~。角大師のお札って、現代的なデザインにも見えてチャーミングに感じちゃいます。いろんな所にありそうだけど、やはりココでゲットするのがご利益ありそう!そういえば、シャトルバスって、そのまま堅田の方に降りて行くやつもあるんですか~?

投稿: ばるさろ | 2016年5月12日 (木) 21:42

★ばるさろさん こんばんは♪
雲母坂から登ったことがあるのですね。私も若いころ?に登ったのですが、延暦寺に入るのに戸惑った記憶があります。西塔も横川もそれぞれ拝観受付がありますが、共通券なのでどこかで買えばよいようになっています。
シャトルバスは比叡山上と延暦寺の各地区を循環するだけです。延暦寺あるいは比叡山上から出町、京都駅方面のバスはありますが、琵琶湖方面に行くのはないと思います。ケーブルで坂本に下りるのがよいと思います。

投稿: りせ | 2016年5月13日 (金) 00:53

★munixyuさん こんばんは♪
この日の景色は夏のようでしたが、風が冷たくて大変でした。人もすくなく静かな一日でした。季節で音の違いを感じるなんて繊細ですね。

投稿: りせ | 2016年5月13日 (金) 01:07

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