赤の宮神社(賀茂波爾神社) 2016
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先日下鴨神社の御蔭祭の蔡列が立ち寄り「路次祭」が行われた赤の宮神社に行ってきました。緑に覆われたいつもの静かな神社に戻っていました。
「賀茂波爾(かもはに)神社」は下鴨神社の境外摂社(第四摂社)、「赤の宮神社」の名で親しまれています。
参道は社務所から直角に曲がり、角に横を流れる琵琶湖疏水(分線)への出入り口があります。
賀茂波爾神社は、かっては延喜式に登録されている式内社で、鎮座地は不明ですが平安時代以前から神祭用の土器を作る集団により祀られていたといいいます。
下鴨神社の摂社になったのは明治の初めで、それまでは旧田中村(高野)の産土神でした。社務所
先日の御蔭祭ではここで舞が奉納されました。
本殿には祭神として、「波爾安日子神(はにやすひこのかみ)」と「波爾安日女神(はにやすひめのかみ)」を祀ります。
これらは、大地を守護し、万物の生成発展、殖産興にはじまり、方除、火災、災難、疫病、厄除けなど、様々なご利益がある神として信仰されています。、
舞殿の横にある「波爾井清水」 かっては湧水で御供水として下鴨神社の神前に奉られていました。
現在はポンプで汲み上げていますが、京の名水の一つとして水を求めに来る人が絶えません。
その横(本殿左手)に鳥居があります。
末社の「権九郎稲荷社」です。短いですが、ちょっとした千本?鳥居のようです。
祭神として「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」を祀ります。倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と書かれることもあり、「うか」は穀物や食物の意味で、穀物の女神と考えられています。伏見稲荷大社の主祭神でもあります。
「赤の宮神社」の通称は、この権九郎稲荷社が勧請された頃に社殿が朱に塗られていて人々が「赤の宮」と呼ぶようになったからといわれています。(思わぬところにキツネがいました。)
ところで、賀茂波爾神社の歴史には高野川の開墾が大きくかかわっています。(ここから戻ります。)
このあたりは高野川の東岸にあたり、かつて一旦川が氾濫すると人馬も通ることもできず、住む人もいない荒地でした。(緑が綺麗でした。)
江戸時代の中頃 大阪の商人・豊後屋又兵衛がたまたまこの地を訪れ、荒涼とした有様をみて開墾を思い立ちました。(鳥居の奥には斎場が設けられていて一段とひっそりとしています。)
その頃、後水尾上皇が修学院離宮へ行幸するあたり道路を建設することを知り、又兵衛は私財を投じてその建設を申し出ました。
又兵衛はその子や同志の村民ら協力して、寛文11年(1671)に道路を完成し、褒賞として道路の両側の荒地を与えられました。彼らは荒地を開拓してやがて村落ができてました。(参道の灯籠には神紋の「加茂葵」)
村人は村の始まりを石に刻んで残そうと発起して石碑を建てました。その石碑は神社の鳥居の右にあります。
賀茂波爾神社が現在地に遷座したのは1671年あるいは1679年とされ、又兵衛らが高野川東岸を開墾した土地に移ってきたのです。また、神社名にある「はに」は、祭神名あるいは、高野川の古名「埴(はに)川」から来たという説もあります。
上の看板は石碑の由来を記したもので稲尾乳業株式会社の奉納です。この会社はこの地域に牛乳を配っていることで知られていますが、かってはこの付近に牧場もあったそうです。(広い駐車場があります)
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コメント
京都は名水が多いよね。
どこのが一番美味しいんだろう。
投稿: munixyu | 2016年5月15日 (日) 19:23
★munixyuさん こんばんは♪
どこが一番美味しいのが気になりますね。私はほとんど飲んでいると思いますが、残念ながら違いがわかるような味覚?がありません。
投稿: りせ | 2016年5月15日 (日) 22:01