大原三千院 客殿から金色不動堂へ2016
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一昨日の記事の続きで、三千院に入りました。三千院の高い石垣と堅牢な「御殿門」は城のような造りで、かっての門跡寺院をしのばせる風格があります。
「三千院」は、奈良時代の延暦年間(782‐806)に伝教大師最澄が比叡山東堂に築いた円融房(えんにゅうぼう)に始まり、その後慈覚大師円仁に引き継がれました。
平安時代の後期から、皇族が住持となる門跡寺院となりました。そして、寺地は比叡山内から近江坂本、京都市中へと移転し、寺名も円融房、梨下房、円徳院、梨下門跡、梶井門跡などど変わりました。(玄関)
明治時代になって大原の地に移り、「三千院」と名前を変えました。
「客殿」は安土桃山時代の天正年間(1573-1592)の建立で、御所の修復の際に豊臣秀吉から提供された紫宸殿の余材が使われたといいます。
客殿の南に広がる「聚碧園」 江戸時代の茶人金森宗和が美しさに感動して、自ら手を加えたそうです。
「円融房」に行く渡り廊下から ここから先には行けません。この池には音無しの滝の水が律川を経て流れ込んでいます。
庭の一番高いところに五重塔を思わせる灯籠があります。庭のあちこちで石楠花が咲いていました。
拝観順路に従い、客殿から上にある宸殿へと廊下を渡ります。途中にある「法洗心」と「清浄水」
「宸殿」は三千院の最も重要な法要である「御懴法講(ごせんぼうこう)」の道場として、大正15年(1926)に建立されました。東にある「虹の間」から、正面にある石楠花は花が咲いていませんでした。
上の定番の位置からではなく、こちらの縁側からの方が景色が良いかも知れません。向こうに往生極楽院が見えます。
振り返って宸殿、前回来たのは雪に覆われた1月末でしたが、すっかり緑の庭園になりました。
有清園の周囲にはあちこちに石仏があります。
庭園の東には池があり、斜面に造られた「細波の滝」から水が流れ込みます。
「往生極楽院」(重文) 平安時代(986年)恵心僧都源信が父母の菩提のために、姉の安養尼とともに建立しました。堂内の阿弥陀三尊(坐像)が公開中でした。
「朱雀門」 往生極楽院の正面にある朱塗りの門で、かって極楽院が本堂だった頃の正門にあたります。呂川沿いの道に面しています。
有清園の南東に「わらべ地蔵」がいます。それぞれ違った顔つきですが、皆おだやかで優しい表情をしています。
これらは石彫家の杉村孝氏の作品です。南禅寺の三門近くにある牧護庵には同氏の作品の100体以上のわらべ地蔵がいます。
杉村孝氏は昭和12年(1937)藤枝市の石材店の三男に生まれましたが、その作品が全国的に認められたのは50歳近くになってからです。強い反骨精神をもった熱心な平和発動家でもあり、芸術を通して様々な活動を行ってきました。
平和を求め人を救いたいという強い願いが、わらべ地蔵の表情となって表れているのでしょう。最近では、宗派を問わずたくさんのお寺に置かれるようになったそうです。池のほとりにもいます。
石段の途中に京の七福神の一つの「妙音福寿大弁財天」と「宇賀神」が祀られています。
宇賀神と弁財天は神仏習合によってより功徳を増すとして、弁財天の頭に人頭蛇身のとぐろを巻いた宇賀神が乗っていることがあります。ここでは、宇賀神は下の檻の中にいます。
「金色不動堂」 祈願道場として平成元年に建立されました。 本尊は智証大師作と伝えられる金色不動明王ですが秘仏となっています。
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コメント
森林浴っていう感じ。柔らかい緑と淡い日差しが
いいよね。わらべ地蔵、飾りにして置いておきたいぐらい
いい顔してるね。
投稿: munixyu | 2016年5月 7日 (土) 13:42
★munixyuさん こんばんは♪
この日は気持ちのよい日でした。わらべ地蔵を傍に置きたいという人がいて、チャリティーで手に入れたそうです。その気になれば見つかるかも知れませんね。
投稿: りせ | 2016年5月 9日 (月) 00:44