知恩院の方丈庭園と黒門から瓜生石へ
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今日は知恩院の方丈庭園。サツキがもう少し咲いているかと期待したのですが
知恩院
浄土宗の総本山で、法然上人を開基とする。
法然上人が比叡山から下り、この地に草庵を結び、初めて浄土の教えを宣布。
法然の死後、文暦元年(1234)に弟子勢観房源智が廟所を整えて華頂山知恩教院大谷寺と号し、自ら当寺第二世となりました。
応仁の乱の時には一時兵火を近江に避けたが、のち徳川家康の手厚い帰依を受け、広大な寺地の寄進を受けて寺観を整えました。
知恩院はいま御影堂が大修理中のため、方丈庭園へは御影堂の後ろの「法然上人御堂」の中から入ります。
ブログを始めて2-3年の頃、瓦職人さんの方から当ブログ掲載の大寺院の鬼瓦の写真がとても参考になりますとコメントがありました。それも励みになって瓦の写真をよく載せています。(法然上人御堂の鬼瓦)
「龍」がモチーフを集めておられる方から「そんなところにも龍がいましたか」と仰ったこともありました。・・・そこで、「龍」が「瓦」になっているのを見つけましたよ。
いかがですか、見事な雲と龍の瓦。一石二鳥。
その正面に唐門があります。その後ろが修復中の御影堂です。
唐門の蛙股(かえるまた)。
蟇股には中国二十四孝の物語を彫ったものをよく見かけますが、これもでしょうね。
知恩院には、大方丈と小方丈があり、どちらも寛永18年(1641)の建築、洛中随一の名書院として知られています。
大方丈は二条城と同様の書院造りの形式を備え、54畳敷の鶴の間を中心に、上・中・下段の間、松の間、梅の間、柳の間、鷺の間、菊の間、竹の間と武者隠しの部屋があり、狩野一派の筆による金箔・彩色の襖絵に彩られた豪華な雰囲気を漂わせています。
鶴の間奥の仏間には、快慶作と伝えられる本尊阿弥陀如来像が安置されています。元祖法然上人800年大遠忌にあたっては、桧皮葺入母屋造りの屋根の葺き替え修理が行われました。
大方丈、小方丈に面した築山林泉庭は、小堀遠州風の手法をもった庭園です。
庭園は大小2つの池になって両方丈に面して造られています。
庭園の背後は東山の裾が迫って築山の代理となって利用されています。豪壮華麗な大方丈、小方丈の建築に対してふさわしく、雄大な豪華な様相を呈した方丈庭園です。
この庭園の作庭については、寛永18年、片桐石見守が奉行となり方丈再建の時、妙蓮寺の僧玉淵坊が量阿弥と共に参画したと伝えられています。
玉淵は江戸時代初期に活躍した石立僧で、小堀遠州とも関係が深く、また桂山荘(桂離宮)の作庭にも関係したと伝えられています。
後、記録によると庭園には度々手が加えられてきたと記されています。
三代将軍家光公お手植の松、三代目です。(濃い緑が松です)
小方丈は6室から成り、大方丈と同様、襖には狩野派の絵が描かれていますが、大方丈とは対照的に淡彩で落ち着いた雰囲気に包まれています。
「二十五菩薩の庭」 (小方丈の東側の庭園)
この庭は知恩院所有の国宝「阿弥陀如来二十五菩薩来迎図」をもとにしたもので、臨終の際念仏を称えれば阿弥陀如来が西方極楽浄土から25名の菩薩を従えて来迎する様を石と植込みで表現したものです。
「石」は阿弥陀如来と二十五菩薩を、「植え込み」は来迎雲を表しています。撮影は24日、サツキも今日はもう少し咲いていることでしょう。
※以前来たときは、山の上の方も拝観コースになっていたと思うのですが、、、御影堂の修復にともなってか、立ち入り禁止ロープがはられていて、コースが短くなっていたように思います。
小方丈と二十五菩薩の庭、正面の門は権現堂の門
鮮やかな緑とピンクの彩りのサツキに抱かれるように埋まる石、そして水の流れを表す白砂・・・ほっこり落ち着き、癒される二十五菩薩の庭です。
権現堂 (現在の建物は昭和49年の再建)
正式には「権現様影堂」と称します。家康、秀忠、家光 三代の霊を祀る廟宇です。今は、この門より中は立入禁止になっていました。
徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと言われています。
帰りは黒門の方から帰ります。
知恩院は「二条城の出城」・・・といわれるように、
黒門の構え、そして知恩院への道は高い石垣が組まれ、お城のそれを表しています。二条城から東に位置する知恩院は古くから「二条城の出城」伝説があります。
二条城を造営した徳川家康が、二条城に万が一のことが起こった場合は、知恩院を城として使うことを考えていたというのです。
黒門から西の方向、二条城は少し右手(北)に位置します。門の下に2つ緑のサツキが見えるのが瓜生石のあるところ。
瓜生石(うりゅうせき)
黒門への登り口の路上にあり、知恩院が建立される前からあるとされる大きな石で、一夜にしてこの石から蔓が延びて花が咲き、瓜が実ったと伝わります。
その下には二条城まで続く通路があるとの伝説もある石です。
サツキが見頃になってきましたね。
四条通の東の突き当りの八坂神社の石段横は、サツキで真っ赤になっています。
サツキの花情報で『見頃』って書いてあっても「うっそー」なところもあるので、慌てて行ってがっかりなことにもなります。
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後ろを振り返って・・・黒門
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コメント
知恩院はずっと工事中なので、どこをどう行っていいかいまいちわからず、坂から上って北門に抜けるだけだったのですが、こんなに落ち着いた所があるんですね~。瓦の意匠は最近オレも気になるようになりました!鬼瓦以外にも家紋や丸瓦とか庇の先あたりに飾りが有ったりするところもありますよね。
二十五菩薩の庭がなんかほんわかしますね。植え込みがむっくりとしてて、菩薩がちょっとうずもれてる感じw瓜生石は知恩院の七不思議とかでしたっけ。。
秀忠は目立たない二代目と言われつつも、実は徳川政権を盤石にする礎を作った、陰の立役者みたいにも言われ始めてるようですね。知恩院の三門の造営も、家康の遺志を継いだ繁栄の為の布石の一つだったのかも。。。
投稿: ばるさろ | 2016年5月29日 (日) 09:41