祇園祭 還幸祭2015
←目次 2006年1月27日から毎日更新しています。
24日は、山鉾巡行と花傘巡行を見た後、一旦帰宅して夕方還幸祭を見に四条寺町の御旅所に出かけました。すでに神輿が一基道路に出ていて、大勢の見物客が取り囲んでいました。
還幸祭は、17日の神輿渡御(神幸祭)で八坂神社から御旅所lに遷された御神霊が、別のルートを通って八坂神社に戻る儀式です。
最初は中御座の神輿に素戔嗚尊 (すさのおのみこと)が乗り込みます。
中御座の神輿は六角形をしていて、四若神輿会の皆さんが担いで、千本御池まで行きます。
次は東御座に、素戔嗚尊の妻である櫛稲田姫命 (くしなだひめのみこと)が乗り込みます。
四角形の神輿は、三若神輿会の皆さんが担ぎ、高辻大宮まで行きます。
最後は、西御座に夫婦神の8人の子供である八柱御子神 (やはしらのみこがみ)が乗り込みます。八坂神社の御祭神は素戔嗚尊の一家なのです。
こちらの神輿は八角形をしていて、錦神輿会が担いで御池大宮まで行きます。
最後に出発した西御座神輿を、先回りして寺町商店街で待ち受けます。
神輿が来ました。道幅いっぱいに担ぎ手があふれ、見物する場所がなくてお店の中に入らないといけないほどでした。
凄い迫力で駆け抜けていきました。
神輿の後には、八坂神社清々講社(昨日の記事に出てきました)。
3基の神輿はそれぞれのルートを通って、三条大宮にある又旅社(御供社)に立ち寄ります。
今度は、又旅社に先回りして神輿を待つことにします。三条通までくると日が暮れてきました。
三条会商店街 堀川通と千本通の間の約800mの京都最大のアーケード商店街です。
祇園太鼓が通りに響き渡っています。まるで、商店街のお祭のようでした。
貞観11年(869)都に疫病が流行した時、平安京の広大な庭園であった神泉苑に66本の鉾を立て、祇園社(現八坂神社)の神輿を迎え、祇園御霊会が行われました(祇園祭の始まりとされます)。又旅社に来ると、神主さんや近所の方が神輿を待っていました。
又旅社はかっての神泉苑の南端にあたり、祇園御霊会祭日の6月14日(明治以後は7月24日に変更)には斎場が設けられ、祇園社の神輿三基を奉安し、神饌を御供えしてきました。明治39年には村社格を廃して、八坂神社の境外末社となりました。
*今日の記事は長くなりそうですが、最後の「お願い」を忘れないでね。中御座の神輿が来ました。
神社の前でひとしきり差し上げを行います。このあと、神事(奉饌祭)が行われます。
神事の斎場は、4つ上の写真の鳥居の右にある芝生(オハケ)です。そこに3本の御幣(ごへい、神の依りどころ)が建てられてお祓いをするのですが、気がつかない間に終わっていました。
今度は寺町商店街に戻って、中御座神輿より先に出発している「神宝奉持列」を待ちます。やはり、八坂神社清々講社が先導して来ました。御旅所を最後に出発した西御座神輿の後ろも清々講社でしたので、還幸祭の行列の前後を守っていることになります。
「神宝奉持列」の先頭の「勅板」 天延2年(974)神輿が平安京を渡御するようにと命じた円融天皇の勅令が書かれていると伝えられます。
平安時代以前の神様の行列は、御神体と神様が身に着ける宝や装束が一緒に巡行したそうです。祇園祭はその古いしきたりを今に残しています。
御神宝は、矛、楯、弓、矢、剣などの武具や琴などの楽器です。
。
綾戸国中神社の久世駒形稚児 古来から中御座神輿の先導を務めてきました。神社の境内では皇族であっても下馬しなければいけないのですが、久世駒形稚児は神の依りとして下馬せずに八坂神社の境内に入ります。
この後、かなり時間が経ってから中御座神輿が来ました。
四条通に出て御旅所の前でもひと暴れ、まだまだ元気です。
南座の前
中御座神輿は、しばらく八坂神社の石段下で差し上げ、差し回しを行ってから、神社に戻って行きました。
一方、東および西御座神輿が帰ってくるのは深夜になりそうなので、待つのを止めて帰宅しました。長い一日でした。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をお願いします(励みですのでよろしく)。
★こちらを是非よろしく→ ブログ村→
-------------------------------------------------------------------
最近のコメント