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2015年12月11日 (金)

長楽寺 2015秋

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

円山公園の東にある安養寺を出て、前の通りを南に行くと長楽寺の参道に出ます。「長楽寺」は時宗の寺院で山号を黄台山(おうだいさん)といい、洛陽三十三所観音霊場第7番札所です。(狭い参道ですが、右は大谷祖廟。)

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平安時代の延歴24年(805)桓武天皇の勅命によって、伝教大師を開基、大師作の観世音菩薩を本尊として創建されました。

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当初(平安時代)は天台宗の寺で、比叡山延暦寺の別院として建てられ、山号は唐の長楽寺に景色が似ていることに由来するといいます。

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平安時代中頃には勅願寺となり歴代天皇が帰依し、特に宇多天皇により本堂などが整備され、藤原氏をはじめとする当時の貴族が参詣、菩提寺ともなったとの記録があります。拝観受付をすませて、まず「拝観所」に入ります。

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この庭は室町時代に相阿弥が足利八代将軍義政の命により銀閣寺の庭を作る時、試作的に作ったと伝えられます。

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苑内に東山(長楽寺山)をとりいれ、山腹からの湧水を滝として落として苑池としています。

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平家物語の「灌頂巻」によると、文治元年(1185)には高倉天皇の中宮、安徳天皇の生母、建礼門院(平徳子)が壇ノ浦の戦いの後、この寺で出家したとされます。

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鎌倉時代(1213年)比叡山衆徒が下山して当寺に立て籠もり清水寺を焼き討ち、南北朝時代(1352年)足利義詮の兵が近江から入り当寺の上峯に布陣したといいます。(拝観所の前にある客殿の「双龍舞閣」)

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室町時代の至徳2年(1385)国阿(こくあ)上人が寺に入り時宗に改宗し、現在に至ります。
本堂は、延歴年間に創立されその後修復・再建されましたが明治18年に廃却、明治23年正伝寺の法堂(桃山城の遺構)を譲り受けたものです。(本堂への石段)

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本尊の准胝(じゅんてい)観世音菩薩は最澄(767-822)作と伝えられます。最澄が唐からの帰国の際に、暴風で難破しかけた船中で示現したという二頭の龍にまたがる観世音を刻んだものといいます。

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歴代天皇が信仰し、勅封の秘仏として、天皇の即位式にだけ開帳されるそうです。洛陽七観音の一つに数えられます。

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「十一重石塔(建礼門院毛髪塔)」 建礼門院は1185年5月に長楽寺の印西を戒師として出家して直如覚と称し、同年10月に大原・寂光院に移りました。

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「鐘楼」 梵鐘は南北朝時代(1378年)および江戸時代(1657年)に鋳造されたという記録があり、「長楽寺の鐘」として知られていました。

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太平洋戦争中に供出されましたが、昭和31年(1956)新たに設計、鋳造されました。大晦日の除夜の鐘は誰でも撞くことができます。

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「平安の滝」 水は「八功徳水」と呼ばれ、専修念仏を広めた隆寛が「嘉禄の法難」で陸奥国配流される際に、ここに青蓮華が生えたといいます。青蓮華は仏や菩薩の目にたとえれるそうです。

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周囲の石壁には平安時代に刻まれた石仏(八体)が組み込まれています。鐘楼や滝は本堂のそばにあります。

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平成20年(2008)に収蔵庫が火災によりほぼ全焼しましたが、一遍木像(重要文化財)を始めとする全ての文化財は住職らによって運び出されて難を免れました。下は再建された収蔵庫です。

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境内の散策路はさらに上に行きます。

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竹林を越えてしばらくすると分かれ道に来ます。右は「尊攘苑」といい、かなり上ったところに尊王攘夷運動が盛んだった水戸藩関係者の墓があります。左の「外史橋」を渡ると、

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「頼山陽」とその親族の墓があります。頼山陽は江戸後期の歴史家・思想家で、著書の「日本外史」は尊王攘夷運動に影響を与え、「日本史上のベストセラー」といわれています。

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頼山陽の墓からの帰り道に見晴らしのよい場所があります。受付で境内の地図をいただき、この場所を教えていただきました。

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下には円山公園の池のあたりが見えます。ずいぶん高いところまで登ってきました。

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かって長楽寺は円山公園の大部分や大谷祖廟を含む広大な寺域を持っていました。江戸時代には、幕命によって大谷祖廟の敷地として寺域を割かれ、明治時代には、残った境内の大部分が円山公園に編入されました。

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ところで、八坂神社の斜め向かいに長楽寺が経営する宿坊「遊行庵(ゆぎょうあん)」があります。誰でも気軽に利用できる宿で、朝食には朝がゆがでるそうです。

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コメント

紅葉もありつつ、緑もありつつでいい感じだよね。
秋も深まってきて、いよいよ冬な感じかな。

投稿: munixyu | 2015年12月11日 (金) 15:46

やはり、あの坂はけっこう先が長いんですねぇ。。
寄り道で行くにはちょっときついかなぁ
でもそのうち行こうとは思ってたんですけどね!w
お墓の名前は 山陽頼になってるのはなんででしょう。。。英語風なんだろうかw
高さは結構あるけど、街からこの近さで奥の院のような静けさってのがいいですね。人も少なそうなので、桜の時期もいい穴場になるかも。。

投稿: ばるさろ | 2015年12月11日 (金) 22:16

★ばるさろさん こんばんは♪
お墓の名前のこと、気が付かれましたか。私も気になっていたので、後で調べると次のような理由がもっともらしいと思いました。
”山陽”は名前ではなく号で、号の後に氏名を書くことはよくあるそうです。この場合は、”山陽頼襄(のぼる)”と書くところを、”頼襄”ではなくいつも呼んでいた”頼先生”と書いたという説です。”山陽”こと”頼先生”という意味だそうです。

投稿: りせ | 2015年12月12日 (土) 00:21

★munixyuさん こんばんは♪
暖かい日が続いていますが、冬の気配もしますね。季節の変わり目は、その雰囲気を写真で表現するのは難しいですね。

投稿: りせ | 2015年12月12日 (土) 00:33

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