圓徳院 2015秋
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高台寺を出て参道入口の向かいにある圓徳院に入りました。圓徳院は秀吉の妻ねねの終焉の地です。下は「長屋門」 敵から攻められた場合に備え右に侍長屋がつながっていて、ねねが住んでいたときの形が残されています。
慶長3年(1598)豊臣秀吉が没すると、妻ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に、高台寺建立を発願します。、
慶長10年(1605)秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を、この地に移築して移り住みました。それ以来、大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が、北政所を慕って訪れたと伝えられています。(唐門)
ねね58歳の時のことです。 これが今日の圓徳院の起こりで、ねねは77歳で没するまで19年間この地で余生を送りました。(方丈前にある「南庭」)
方丈は、兄・木下家定がねねを警護するために建立した居館の客殿で、平成6年に解体修理が行われました。庭は奈良国立文化財研究所・故森蘊博士の指導のもとで作庭されたものです。
ねねの好みに合うように長屋門からこの南庭まで年中できるだけ花や紅葉を愛でられるように工夫されているそうです。路地及び周辺庭園の整備は庭師・北山安夫氏が行っています。
兄の木下家定とその次男・利房は、亡くなるまでねねを支えました。ねねの没後の寛永9年(1632)に利房の手により圓徳院が建立され、木下家の菩提寺となりました。(方丈の北)
高台寺の三江和尚を開基に迎え、高台寺の塔頭となりました。ねねの没後9年目のことです。(方丈南庭が見えます。)
渡廊下の下は「ねねの小径」 ねねの道から石塀小路に抜けられます。
北書院に来ました。「北庭」はもともと伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したもので、当時の原型をほぼそのままに留める桃山時代の代表的庭園のひとつです。
賢庭の作庭で後に小堀遠州が手を加えたとされ、国指定名勝になっています。
「桧垣の手水鉢」 室町時代作とされる宝塔の笠を利用し、笠石を横にして、その面を凹字形に切り取り手水鉢としたものです。左の茶室では季節により、お茶席が開かれます。
圓徳院のHPには「池泉回遊式ですが枯山水となっています」と書いてあります(どういう意味なのか分かりません)。
庭の東北部(上の写真の左)を基点として枯滝石組を構成し、築山を中心にして左右に多数の石組を二等辺三角形にまとめて数群展開させ、一部に蓬莱石組を作っています。
橋を構成しているのはかなりの巨石です。このように多数の巨石がふんだんに置かれている庭は珍しく、桃山時代の豪華さ、豪胆さを表しているとか。
出口の付近からも北庭が見えます。ここから見ると瀧石組から続く溝が深くてかって水が流れていたように見えます。池泉回遊式で枯山水とはこのことかも知れません。
拝観出口の木戸の外は「三面大黒天」の境内になっています。三面大黒天は、秀吉の念持仏、守り本尊で、大黒天・毘沙門天・弁財天の三つの顔を持つ尊像です。
それぞれ、福の神、勝利・子宝の神、学問・芸術の神なので、これらの三天合体神を一度拝めば、福、健、徳の三つのご利益が得られるとされています。(三面大黒天御堂は京都御苑から移築したものです。)
毎月3日の縁日には、秀吉が夢が叶う毎に瓢箪を集め千成瓢箪とした史実にちなんだお参りが行われます。まず、下の「歌仙堂」で瓢箪の形をしたお札に願い文を書きます。
願い文を瓢箪の形をした手水鉢(奥の方)の水に浮かべると、お札は瓢箪に抱きとられるように溶けて沈み、「三面大黒天」の字だけが水面に漂うそうです。手水鉢に抱きとられた願い文は住職の手で集められ、瓢箪の型に流し込まれ祈願法要されます。
そして型から取り出された願い文の瓢箪は、三面大黒天と共に奉られます。願い文の瓢箪が千成瓢箪になると、大法要をするそうです。
ねねの道に出ました。
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コメント
今年の紅葉は色づき悪く遅いけど、ここのは
なかなか綺麗だよね。
そういえば、ねねは77歳って、当時としてはかなり
高齢っていうか、長寿だよね。
投稿: munixyu | 2015年12月14日 (月) 14:21
この圓徳院の前は何度も通ってますが中に入った事は
ありません
こんな素晴らしいお庭があったんですね。
しかし相変わらず人が写っていない写真が多いです。
部屋の中から庭を撮った写真はすごいです
よくこんな写真撮れたな~と感心します。
かなり苦労して撮られてる事と思います
人気の東山は人一杯ですものね(゚ー゚)
投稿: たくろう | 2015年12月14日 (月) 19:53
圓徳院はちょうど、百鬼夜行展をやってる時に入ったので、結構人がいっぱいでした。
人が居ない書院の写真はなかなか難しいかもしれないですね~。ねねの小径の立体交差みたいな所が好きです。秀吉の没後にねねがこちらに色々移築したんですね。。。その後の伏見城で戦いがあったってことになりますね。。。
投稿: ばるさろ | 2015年12月14日 (月) 23:08
★たくろうさん こんにちは♪
高台寺は人が多いのですが、圓徳院はそれほどではありません。最近は、お寺の方が縁側に座る人を室内に入れて、こちらからご覧になった方がいいですよと誘導してくれる場合があります。この日も、後ろにはたくさん人がいます。
投稿: りせ | 2015年12月16日 (水) 13:32
★ばるさろさん こんにちは♪
確かに、化粧御殿は伏見城の戦い(1600年)の前にこちらに移されていたのかも知れませんね。あちこちに残る「血天井」も真偽が不明と考える研究者が多く、落城・炎上したとされる伏見城が実際はどうゆう状況だったのか謎です。
投稿: りせ | 2015年12月16日 (水) 14:13
★munixyuさん こんにちは♪
昔でも70~80歳まで生きた人は意外といますね。現代の医者や薬が必要な病気や怪我をしなかったら、昔の人でも今と同じように長生きできるのかも知れません。
投稿: りせ | 2015年12月16日 (水) 14:29
非常に綺麗にまとまったブログ見せていただき有難き、秀吉がとても愛したネネの肖像画が一枚も残っておらず一体どんな人であったかは分かりませんが秀吉が貧しかった時からの妻であり、ネネは秀吉が何処の村から出て来たも知って居た時の想像します。秀吉の出生や本名も全く探してもでてこない程秀吉は自分の過去を隠した人でした。1624年にネネが亡くなったのは江戸時代であったが徳川家もネネを抹殺しなかったのはネネは全く政権に手を出さない田舎のばあちゃんの様な生活だったと想像します。
石庭は全く確かに素晴らしいです。手水鉢は誠に変わった形をしてましており京都では見かけない形です。私個人としては自然を感じる形の方がより好きでその方が庭にあるのではないかと痛感する次第です。何と無くフランスで作られた斬新な物に見えてならないのです。
投稿: こんたに そとよし | 2017年1月 3日 (火) 20:21
★こんたに そとよしさん こんばんは♪
家康がネネに一目置いていたのは、”政治的配慮”からとよくいわれます。でも、その間の事情があまり納得できなかったのが実情です。ネネがおっしゃる通りの人物だったことが理由かも知れませんね。いろいろ参考になるコメント、ありがとうございました。
投稿: りせ | 2017年1月 4日 (水) 00:21