糺の森 2015秋
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昨日の記事で下鴨神社の社殿を見た後、橋殿の裏の門から境内(糺の森)に出ました。ここから「御手洗川」は「ならの小川」と名を変え、流路が二つに分かれます。
東西にならの小川が流れる中州は「舩島(ふなしま)」と呼ばれ、発掘調査によって祭祀跡(奈良社)が発見されました。周囲から奈良時代後期の土器が出て、西岸には細い参道跡が見つかったそうです。
また、南からは井戸跡が見つかり、神社の記録(836年)にある雨乞の儀式が行われた跡ではないかと考えられるそうです。「鴨の七不思議」には、戦乱や旱魃にのときにこのあたりの水を掻き回すと、小石が跳ねて世相が落ち着くという
舩島の南は、北から下鴨神社の東を流れて来た「泉川」が流れ、このように川が合流する地点は清浄で神聖な場所と考えられてきたのだそうです。
泉川沿いの散策路を行くと、もう一つの古代祭祀跡があります。糺の森では平安遷都以前、縄文時代の遺跡も見つかっています。2001年から始まった発掘調査では、平安時代後期の方形状の祭壇遺跡が発見され、
そのうちの二つを復元したものが下の写真です。建物の基礎に川原石を多用する工法は平安時代後期の天皇や上皇の建物に見られるそうです。
石敷きの上に建つ二つの建物はそれぞれ、泉川とならの小川に面していることから、何らかの水に関した祭祀が行われたと推測されるそうです。(下は露出している石敷き。)
境内を東西に横切る道で散策路は終わります。下は泉川にかかる橋。
この東西の道を西に行くと、表参道と平行な馬場に出ます。ここではならの小川は「瀬見の小川」と名を変えます。このように川の名前が変わるのは、かって存在した4本の川の名を復活させたからです。
4本の川の水源は、松ヶ崎付近の高野川(泉川)と御手洗池の湧水の二つしかなく、御手洗側が名を変えたならの小川も途中で泉川の水が加わっています。東西に横切る道は通学路になっているようです。
「第一蹴(しゅう)の地」 日本のラグビーは、明治33年(1899)に英国人E.B.クラークが慶応大学で指導したことに始まるそうです。慶大生の真島進がこの近くに下宿していた親戚の三高生・堀江卯吉を訪ね、その友人たちとこの馬場で練習しました。
これがきっかけとなり、明治43年(1910)三高に国内2番目の蹴球部ができます。翌年には二校が対戦して、これが日本人同士の最初のラグビー試合でした。この碑は 三高蹴球部OBによって、昭和44年(1969)に建立されました。(私は蹴鞠発祥の地だと思っていました。)
表参道
馬場の西の道は「古馬場」で、奈良時代以前から平安時代後期まで使われたそうです。
「鴨社神宮寺池跡」 かって河合神社の北に嵯峨天皇が建立した「神宮寺」があったそうです。
本尊・本尊十一面観音および不動明王を祀り、鎌倉時代には本堂、経所、経蔵、待賢門院請願の西塔などがありました。
明治時代の廃仏毀釈によって寺は壊され、今では森の中に基壇と礎石3個、この池跡が残るだけになりました。
馬場の端に近づいてきました。
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コメント
雪こそ降ってないものの、もうすっかり冬景色だよね。
今年は暖冬らしいけど、それでも時期が来れば
やっぱり冬景色になるよね。
投稿: munixyu | 2015年12月16日 (水) 14:37
葉が落ちたことで、光の通り具合がよくなってる気がしますね。。。川沿いの森の辺りからいろいろ出てくるのは、遷宮とかを繰り返したりしたのかもしれないですね。。。奈良時代の物もあるとなると、やはり古くからココは加茂氏の勢力が強かったのかなぁ。。。または他の勢力から加茂氏がここを奪って、その際につぶされたとか。。。
神宮寺が廃仏毀釈のためとは言え、天皇が作ったものなのにつぶすなんて。。。なんて思ったんですが、もともとここは神社だからつぶすのに躊躇なかったのかなぁ~なんて思ったり。。いろいろ考えながら歩くのも楽しいですね~
投稿: ばるさろ | 2015年12月16日 (水) 22:03