曼殊院 2015秋
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鷺森神社の森を抜けると曼殊院道に出ます。しばらく歩くと道の両側に田畑が増えてきて、
盛りの頃は紅葉のトンネルになるところです。突き当りが江戸時代(1656年頃)に建立された「勅使門」で薬医門となっています。
薬医門のいわれは、矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」、あるいは、四六時中患者が出入りできる木戸をつけた「医者の門」とか。屋根が4本の柱の前側に偏っているのが特徴だそうです。
延暦年間(728~806)宗祖伝教大師最澄により、鎮護国家の道場として比叡の地に創建されたのが曼殊院のはじまりです。(拝観入口がある北通用門)
その後、天暦年間(947~957)の是算国師のときに比叡山西塔北渓に移り、「東尾坊」と号しました。(「庫裡」から入り、勅使門の正面にある「大玄関」を通ります。その間にある庭。)
また、この国師が菅原家の出生であったことから、北野天満宮が造営されると初代別当職(管理職)に補され、以後明治維新まで北野別当職を兼務することになります。
曼殊院では是算国師を曼殊院初代(住持)としているそうです。(回廊が大玄関から大書院まで続き、右は梅林です。)
天仁年間(1108~10)に8代忠尋大僧正が寺号を「曼殊院」と改め、北山に別院を建立しました。(護摩堂 手前に「宸殿再建予定地」と書いてあります。拝観受付の前にその完成図がありました。)
そして明暦2年(1656)に29代良尚親王が入寺し、現在の地に堂宇を造営したのが現在の曼殊院です。(大書院に入りましが、部屋の内部は撮影できません。以下では外の写真だけになります。こちらは梅林。)
大書院の前(南)庭 遠州好みの枯山水庭園が広がり、水の流れをあらわした砂の中に鶴島と亀島を配しています。写真は鶴島で、樹齢400年の五葉松が鶴を表現しています。
大書院は江戸時代(1656年)に良尚親王により建立されました。この部屋は仏間で、厨子中央に鎌倉時代作の本尊・「阿弥陀如来立像」が安置されています。
前庭は、中興の祖の良尚親王が遠州好みに作庭させたので、禅庭と王朝風庭園が融合しているといわれています。(外縁を歩いて小書院に向かいます。)
五葉松の根元には曼殊院型のキリシタン灯篭があります。公家風で趣味豊かな良尚親王の趣向を反映しているとか。
向こうが「小書院」 静かに水面をさかのぼる屋形舟を表現しているそうです。
庭の奥には霧島つつじが植えられており、5月のはじめ頃に深紅の花を咲かせるそうです。
大書院と小書院とは雁行型に建てられていて、東と南に折矩(おりかね)の外縁が廻ります。
ここまでは書院をつなぐ外縁。
後ろを見ると、大書院と小書院の間の坪庭があります。
奥の築山には2つの石による「橋石組」が組まれ、砂紋を引いた白砂の大河が苔地の間を流れ下り、大海に注いでいます。
小書院の「富士の間」の「釘隠し」 富士山と雲、霞をあしらった七宝焼で、梁の木目も雲にたとえているとか。
小書院の「黄昏の間」は良尚法親王の居間だったそうです。外を見ると、屋形船の船べりに似せて板欄干が張り巡らされています。
築山にはもう一つの橋石組があり、その奥の立石(橋添石)は滝を表しているそうです。
小書院の「黄昏の間」の北には茶室「八窓軒(はっそうけん」(重要文化財)があります。
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コメント
石庭にいるのに、川辺にいる感じ
寺中が川の中にあるみたいだよね。
投稿: munixyu | 2015年11月19日 (木) 14:20
曼殊院好きです~。まだ一度しか行ってないですがまた行きたい所です。宸殿再建予定地はまだそのままなんですねぇ。。同じ門跡寺院で不動さんで有名な青蓮院さんに比べると、ちょっと経済的な差がついてしまった感がw黄不動はまだ博物館で保管中なんでしょうねぇ。。。紅葉は折り紙付きだし、天皇も訪れるほどなんだから、少しぐらいそっちから補助金が出たらいいのに。。。なんて思ってますw
八窓軒も好きなお茶室です。イカスミを塗り込んだ黒い壁がオシャレなんですよねぇ。庭のほうはちゃんと見てなかったのでまた行こうかな~
投稿: ばるさろ | 2015年11月19日 (木) 21:50