大覚寺 2015秋
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直指庵を出て、約15分ほど歩いて大覚寺を訪れました。大覚寺は、弘法大師空海を宗祖とする真言宗大覚寺派の本山です。
平安時代の初期、嵯峨天皇と檀林皇后の新居として離宮嵯峨院が建立されました。嵯峨天皇が帰依していた空海が、離宮内に五大明王を安置するお堂を建てたのが大覚寺の前身です。(この日は「玄関門」あたりが工事中で、「明智門」から入りました。)
嵯峨天皇が崩御して30数年後の貞観18年(876)、嵯峨天皇皇女の正子(せいし)内親王が離宮を寺に改め、清和天皇から寺号を贈られて大覚寺としました。(左の庫裡玄関から入ります。右は「式台玄関」)
淳和天皇と皇后・正子内親王の皇子・恒貞親王(ごうじゃく)が開山(初代住職)となりました。(式台玄関は後水尾天皇の中宮・東福門院の女御御所の一部が移築されたといいます。)
以後、大覚寺は歴代の天皇や皇族が住持をつとめる門跡寺院となり、嵯峨御所とよばれました。(「宸殿」も後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物で、東福門院和子の女御御殿の宸殿として使用していたものとか。)
宸殿前で「嵯峨菊展」が行われていました。
TOPの写真は嵯峨菊展の方から宸殿を見たもの。
東の外縁からは「五大堂」が見えます。お堂や回廊の回りにも嵯峨菊の鉢が並べられていました。
各伽藍を結ぶ回廊は、柱をにわか雨に、直角に折れ曲がる回廊を稲光にたとえて「村雨の廊下」と呼ばれています。床は鴬張りで、低い天井は刀や槍を振り回せないようにするためとか。
宸殿の北の苔庭
「正寝殿(しょうしんでん)」 書院造りで12の部屋があります。
上段の間は後宇多法皇が院政を執った部屋で、執務の際は冠を傍らに置いたことから、「御冠(おかんむり)の間」とも呼ばれています。南北朝の媾和会議がここで行われたそうです。
北に行く回廊 左の建物は「庭湖館」 かって大沢池の畔にあった江戸時代中期の建物を1868年に移築しました。
右手に「勅封心経殿(ちょくふうしんぎょうでん)」が見えます。大正14年に法隆寺の夢殿を模して再建されたもので、嵯峨天皇をはじめ、後光厳、後花園、後奈良、正親町、光格天皇の勅封心経を納め、薬師如来像が祀られています。
境内の北西にある池の周囲は紅葉の色づきが進んでいました。
回廊の突き当りを右に行くと「霊明殿」があります。
綺麗な朱塗の建物で江戸時代末期の建立。1958年に東京の寺から移築したそうです。
ここには、嵯峨御流関係者の位牌が安置されています。(振り返って回廊の方を見ると)
「御影堂」 大正14年の建造。大正天皇の即位に際して建てられた饗宴殿を、式後に賜って移築したもの。前庭は白川砂により大海を表し、右近の橘、左近の桜が植えられ、中央に舞楽台、奥に勅使門が見えます。
勅使門は嘉永年間(1848~54)の再建。一般に勅使門は天皇関係者にしか開けられませんが、数年に一度の嵯峨御流の献花式には開門されるそうです。
御影堂には、嵯峨天皇、秘鍵大師(弘法大師)、後宇多法皇、恒寂入道親王など大覚寺の歴史に大きな役割を果たされた人々の尊像を安置しています。
御影堂は勅封心経殿の前殿でもあり、内陣正面は心経殿を拝するため開けてあるそうです。
また、心経殿に五色の絹布を結び、それをお祀り する御影堂(心経前殿)」まで通して、その先端に法具を結びつけています。
「五大堂」 江戸時代中期の天明年間に創建され、現在の大覚寺の本堂です。不動明王を中心とする五大明王を祀っています。正面には吹き抜けの広縁があります。
大沢池に面する東面には、池に張り出すように広いぬれ縁(観月台)があり、ときどきお茶席になります。
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コメント
日向ぼっこする鳥たち。
季感は、いよいよ冬だよね。
投稿: munixyu | 2015年11月28日 (土) 17:02