大沢池 2015秋
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大覚寺の伽藍を見たあと、大沢池をめぐりました。「大沢池(おおさわのいけ)」は、大覚寺の東に位置し、周囲約1kmの日本最古の人工の林泉です。林泉とは林や泉水などがある庭園のことだそうです。
嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたって、唐の洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれました。
大沢池は、池泉舟遊式庭園ともいわれ、当初から舟遊びが行われました。南の入口近くに船着き場があります。
大覚寺の本堂(五大堂)の前にある桟橋の先端は、斎場や舞台になります。
池の西には鳥居があり、「五社明神」の舞殿と本殿が建っています。それ以外に、多賀大神、気比大神、お稲荷さんなどの祠もあります。かっての神仏習合の名残りです。
このあたりは、しばしば時代劇の撮影場所になっていて、特に江戸市中の設定が多いとか。今日もロケがあるようです。
「放生池」 向こうに「多宝塔」が見えます。
大沢池の方 平安時代から池の形は変わっていないそうです。
放生池のほとりに、平安時代後期のものといわれる20体以上の石仏群があります。それぞれがいろんな形をしていて、かなり大きなものです。
「多宝塔」 1967年に建立された新しい建物ですが、鎌倉時代の毘沙門天立像が安置されています。前に車が停まっていて、
多宝塔の左手には馬に乗った数名の方が待機していました。
池の周囲の道に戻ると、馬に乗った出演者が梅林を通って竹林の方に向かっていました。そこには幕で囲われた馬場が造ってありましたが、どのよう時代劇か分かりません。
右が天神島、左が梅林です。向こうに見える広場の左手に、かっての庭園の遺跡があります。
「名古曽の滝跡」(なこそのたきあと) 離宮嵯峨院の滝殿庭園内に設けられたもので、『今昔物語』では百済川成が作庭したと伝えています。でも、平安時代の中頃には既に枯れてしまったそうです。
平成6年から行われた奈良国立文化財研究所による発掘調査で、中世の遣水が発見され、滝と鑓水が当時の様相に復元されました。滝から少し水が湧き出ています。
「菊ヶ島」 大覚寺は、いけばな発祥の寺でもあり、「嵯峨御流」の総司所(家元)です。嵯峨天皇が、菊ヶ島に咲く野菊を手折り、器にいけたのがはじまりとされます。
「庭湖石」 大沢池には上で紹介した二島一石があり、その配置が華道の嵯峨御流の基本型にも通じているのだそうです。
ここから池の東になります。
木の間から嵯峨野の田園風景が見えます。
池の向こうに五大堂、後ろに小倉山が見えます。
ところで、昨日の記事で初代住職となった恒貞親王ですが、順当にいけば天皇になる立場の人でした。それが、承和の変など藤原一族の政争に巻き込まれ、ついには皇太子の身分や命の保証までない、という立場に追い込まれてしまいました。
亡き祖父の嵯峨天皇や父の淳和天皇の期待を一心に受け、幼少の頃からそれに応えてきた立派な親王だったそうです。(池の南に来ました。多宝塔の左上に見える白いものは、朝原山山頂にある嵯峨天皇山上陵への参拝道です。)
母の淳和天皇皇后(正子内親王)は落胆して、父の嵯峨天皇が建てた離宮嵯峨院をお寺にして、住職とすることによって親王を守ろうとしたのです。(天神島の祠には菅原道真を祀っています。)
それに尽力したのが道真で、離宮を大覚寺にすべく上奏文を起草しました。そうして無事、に勅許を得て「大覚寺」が誕生して真言宗の寺院として再出発したのです。
池を一周しました。
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コメント
撮影とかって、時間がかかって大変なんだろうね。
大沢池、いいところですね。
投稿: munixyu | 2015年11月29日 (日) 15:07