西雲院 宗厳の生涯
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昨日の記事にある文殊塔へ上る石段の途中から、金戒光明寺塔頭・西雲院への参道が分かれています。墓地の中をしばらく歩くと木立に囲まれた寺門が見えてきます。
江戸時代の元和2年(1616)宗厳(そうごん)が、金戒光明寺から法然縁の「紫雲石」を贈られて、この地に草庵を結んだのが始まりとされます。
宗厳和尚は千日の別時念仏(千日念仏惣回向)を修し、その後も万日念仏惣回向(28年)を発願しました。寺には多くの僧侶が集い、寄進も集まり念仏道場として栄えました。本堂
では、宗厳和尚とはどうゆう人物だったのでしょうか。
今からおよそ400年前、豊臣秀吉は16万の大軍を率いて朝鮮半島に攻め入りました(文禄・慶長の役)。この戦いは朝鮮各地で反撃にあい、明軍の出動もあって日本軍が形勢不利のまま、秀吉の死とともに撤退して終わりました。
しかしながら、この侵略戦争によって朝鮮の国土は荒廃し、多くの朝鮮人の生命が奪われました(豊国神社前の「耳塚」はその「戦功」でした)。 庫裏
また、各大名は多くの人々を生け捕りにして日本に連れ帰りました。宗厳和尚はそのとき秀吉の家来・小野木重勝に捕らえられた少年の一人だったのです。
その後、蜂須賀正勝(小六)の長男・家政が宗厳を北政所に献上して、北政所の命により滝川下総守雄利の娘の使用人となりました。
娘は大変器量がよく、北政所のお気に入りでした。また、宗厳も娘に良く仕えましたが、慶長10年(1605)に僅か17歳で亡くなってしまいました。宗厳30歳の時です。
滝川雄利は娘の死を悼み、その戒名に因んで金戒光明寺に塔頭・龍光院を建立しました。
一方、仕えていた娘の死に人生の無常を感じた宗厳は、許しを得て知恩院第29世満誉尊照を師として出家しました。(期待していた蓮ではなく、百日紅が咲いていました。)

そして11年間諸国を巡る修行の後、元和2年(1616)龍光院のある黒谷に帰って来ました。
龍光院の墓前で念仏を唱え続けている宗厳を見て、金戒光明寺第27世了的は紫雲石を宗厳に授けて、西雲院を開山させたのです。
一心不乱に念仏修行をする宗厳の徳を慕って、西雲院には多くの僧侶が集い念仏道場として栄えました。
法然上人が比叡山を下り、この白河石に腰を掛け念仏を称えると、紫色の雲が立ち四方に芳香を発したとされます。法然はこの地が念仏道場にふさわしいと考え草庵を結んだのが金戒光明寺の始まりです。紫雲石
宗厳は発願を果たせぬまま寛永5年(1628)に53歳で亡くなりますが、その死後万日念仏惣回向、3万日念仏惣回向、4万日念仏惣回向(100年)と続けられ、西雲院はいつしか「万日寺」と呼ばれるようになりました。
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コメント
秀吉のとばっちりみたいなもんですね。
晩年の秀吉はボケ老人だったような雰囲気ですよね。
投稿: munixyu | 2015年8月 2日 (日) 12:44