« 浄住寺 洛西の古刹の歴史 | トップページ | 鴨川 夕陽に染まる水面 »

2015年8月 6日 (木)

萬福寺 隠元禅師がもたらしたもの

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jmt_2066a
※写真は全てクリックで拡大します。

先日は萬福寺の主要伽藍と仏像たちを記事にしました。今日は萬福寺建立にまつわる歴史を振り返りながら、開祖の隠元禅師がもたらしたものを見て回ることにします。下は総門を内側からみたところ 屋根に乗っているのは摩伽羅(まから)というワニに似た想像上の生物です。、

Jmt_1728a

黄檗山萬福寺は寛文元年(1661)に中国僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師によって開創されました。(境内の建物を結ぶ黄檗様敷石は龍の背の鱗を表し、この上に立てるのは住持だけだそうです。)

Jmt_1832a

隠元禅師は中国明朝時代の臨済宗を代表する僧で、中国福建省福州府福清県にある黄檗山萬福寺の住職をしていました。(天王殿の×型の襷欄干は中央チベットが源流とされ、日本では大変珍しいそうです。)

Amq_0854a

禅宗は鎌倉時代に中国から伝来しましたが、江戸時代に入る頃には法要のやり方などが乱れていました。(天王殿に祀られている弥勒菩薩の化身の布袋様 開いた口は煩悩や穢れを吸い取ってくれ、大きなお腹はお参りした人の煩悩が溜まっているといわれています。)

Jmt_1837b

そこで、明の高僧を日本に招き、本来の姿を取り戻そうとしたのです。(大雄宝殿  卍くずしの欄干は中国様式のものです。)

Jmt_1767a

江戸時代初期、長崎の唐人寺の崇福寺の住持に空席が生じ、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が、隠元を日本に招請しました。(本尊の釈迦三尊像と脇侍の阿難と迦葉。木魚は黄檗宗が日本にもたらし、その後他宗にも普及しました。)

Jmt_1944a

隠元が中国から連れてきた范道生(はんどうせい)作の十八羅漢像 彫りの深い顔立ちに、いきいきとした表情、緻密な模様が刻まれた衣裳は日本の仏像に見られないものです。

Jmt_1933a

当初、隠元は弟子の也嬾性圭を派遣しましたが、船が難破して死亡したため、やむなく自ら20人ほどの弟子を率いて、承応3年(1654年)に長崎へ来港しました。隠元62歳の時です。(法堂の欄干も卍くずしです。)

Jmt_1956a

開?(かいぱん) 木魚の原型といわれ、咥えているのは玉ではなくあぶく(煩悩)だそうです。あぶくを吐くことで煩悩から解放されるのです。叩く音で法要や食事の時間を知らせます。

Amq_0914a

なお、随行した弟子のうち10名は翌年に帰国し、10名が日本に留まり、そのうち3名が日本に帰化しました。(雲板 雲の形をした青銅の板で、食事や法要の際、諸堂への出頭を促すために鳴らされます。)

Amq_0913a

隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う僧や学者たちが集まり、僧俗合わせて数千ともいわれる活況を呈しました。(巡照板(じゅんしょうばん) 境内の5箇所に設けられていて、修行僧が朝4時と夜の9時に木槌で打ち鳴らして時間を知らせます。)

Jmt_1965a

明暦元年(1655年)には妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺の住持になります。(蛇腹天井 龍の腹を模した黄檗宗独自の天井)

Amq_1014a

しかしながら、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限されました。(六角形の釣灯篭です。)

Jmt_1907a

隠元の渡日は当初3年間の約束で、本国からの再三の要請もあって帰国を決意しました。(隠元が日本にもたらした隠元豆、スイカも同様です。)

Amq_0856b

そこで、龍渓らが引き止め工作に奔走して万治元年(1658)には、江戸幕府4代将軍・徳川家綱との会見に成功します。(香椿、若芽は食用になるそうです。またそれまで日本人が食べていなかった蓮の根や筍を食べることも教えました。)

Jmt_1809a

その結果、徳川家綱から厚いもてなしを受け、万治3年(1660年)山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年、新寺を開創しました。旧を忘れないという意味を込め、故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けました。(孟宗竹も隠元がもたらしました。)

Jmt_1726a

賜った土地は、かって近衛家の邸宅があった場所で、崇敬を受けていた後水尾天皇の生母、中和院の別邸があったところでもありました。その井戸は中和井と呼ばれていました。

Jmt_1795a

寺の建立は1661年に始まり、寛文3年(1663年)には、完成したばかりの法堂で祝国開堂を行い、民衆に対しては、日本で初めての授戒「黄檗三壇戒会」を厳修しました。隠元71歳の時です。(このあたりは、1972年に庭園・中和園として整備されました。)

Jmt_1800a

松隠堂は隠元が寛文4年(1664)に住職を退いたのち居住したところで、隠元歿後は開山塔院として各塔頭の住職が輪番で守ってきました。正面は開山堂

Amq_0831a

合山鐘(がっさんしょう) 、元禄9年(1696)に6代・千呆により再鋳された雲文梵鐘。開山堂、寿蔵、舎利殿で行われる儀式の出頭時にのみ鳴らされます。

Jmt_1791a

延宝7年(1679)には諸堂がほぼ完成し、黄檗山萬福寺が開かれます。しかし隠元はそれを待たず延宝元年(1673)に享年81歳で亡くなります。その時、後水尾天皇から贈られた戒名「特賜大光普照國師塔銘」の刻文がある石碑が1709年に建立されました。石碑亭(重文)の中で亀趺の上に石碑が乗っています。

Jmt_1784a

隠元没後も中国福建省出身の住持が続きましたが、第21代の大成照漢を最後に、以後は日本人の住持が続いています。下は寿塔((重文、寿蔵あるいは真空塔) 寛文3年(1663)に隠元の生前に築造された墳墓です。

Amq_1043a

本瓦葺の六角堂で、宝形造の屋根に露盤・宝珠を置き、半円形石垣に囲まれた中国式墳墓です。 円窓の戸板題「寿蔵」は隠元の書、額「眞空塔」は霊元天皇の書です。

Amq_1045a

怨親平等塔 日中戦争の戦禍の犠牲になった両国の精霊を慰めるため、当時の山田玉田和尚が69643文字の妙法蓮華経を1字1石に謹書して宝篋印塔内に納めました。それに感激した四日市の篤志家がこの塔を建立して、両国の友好を祈願したもの。

Jmt_2004a

最後に、励みになりますので、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしく。

  ★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Amq_0820b

|

« 浄住寺 洛西の古刹の歴史 | トップページ | 鴨川 夕陽に染まる水面 »

コメント

隠元豆、スイカ、孟宗竹。いろんなものをもたらしてくれたのに
隠元も、いろいろ大変だったんですね。
開梆、かわいい魚ですよね。

投稿: munixyu | 2015年8月 6日 (木) 12:53

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 浄住寺 洛西の古刹の歴史 | トップページ | 鴨川 夕陽に染まる水面 »