萬福寺塔頭・萬松院
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萬福寺の総門を出て駐車場に向かうと、正面に塔頭の萬松院(ばんしょういん)が見えます。江戸時代の1670年、東巌禅師によってその師・龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)の塔所として開創されました。
東巌禅師は江戸時代の黄檗宗の僧ですが、生没年ほか詳細は不明です。
龍渓禅師(1602-1670)は京都に生まれ、8歳で東寺に入り、16歳で摂津国・普門寺(臨済宗)で出家し、宗琢と称しました。(入口の正面にある不動尊)
1620年普門寺の師・籌室玄勝が没しその第9世となります。その間、竜安寺の伯蒲慧稜に参禅して龍渓宗潜と改め印可を受けました。(この不動尊は金運あらたかとされ、「金成不動尊」と呼ばれています。)
1627年の「紫衣事件」では師・伯蒲に従います。(その後不動尊は荒廃しましたが、寂門道律(じゃくもん どうりつ、1651-1730)が再興し、「宇治十三社寺まいり」の一つとなっています。)
紫衣とは紫色の法衣や袈裟のことで、宗派を問わず高徳の僧が朝廷から賜り、朝廷にとっては収入源の一つでもありました。幕府はこの権限を朝廷から取り上げようとして、禁令を出し、これを無視して後水尾天皇が与えた紫衣の返還を命じたのです。
後水尾天皇は反発し、一部の大寺の僧侶たちは朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出しました。これに対して、幕府は反抗した高僧を流罪に処しました。その後、1632年には処分が撤回され、取り上げた法衣も返却されたそうです。
龍渓禅師は、竜安寺塔頭・皐東庵を自坊とし、妙心寺の首座、普門寺を経て、1651年に妙心寺住持となり紫衣を賜りました。その後、退隠して普門寺に戻りました。(向こうは開山塔)
1654年に隠元禅師が来日するとその弟子になりました。(開山塔は天光塔と呼ばれ、後水尾天皇の寄進です。)
1657年には後水尾天皇の帰依を受け、幕府にも働きかけて寺地を確保するなど、隠元禅師の萬福寺建立を助けました。
1663年隠元禅師より印可を受け諡号を性潜に改め、1664年には後水尾法皇の勅願寺、日野・正明寺の住持となります。1669年には萬福寺の5人目の住持となり、日本人初の隠元禅師の嗣法者となりました。
1670年に大坂・九島院での斎会中に台風に遭遇し、激浪の中で禅堂に趺坐したままで亡くなったと言われています。龍渓禅師享年68歳、遺骨が開山塔に納められています。(下は新しい本堂)
本堂には、直原玉青(1904-2005)筆の60面の障壁画があります。通常非公開ですが、事前に予約すれば拝観可能とのことです。各部屋ごとにテーマが違い、龍、虎や獅子などが力強く描かれているそうです。
そして内陣の右隣の襖絵は「龍渓禅師水定の図」で、前述のように斎会中に暴風雨に遭い、門弟などの避難要請にも応じず、趺坐したまま亡くなったという故事が描かれているそうです。
一度は本堂の中を見たいものですが、ご住職が他寺も兼務されていてなかなか連絡がつかないという話です。竜宮門
萬松院の前にある土産物・普茶料理の「萬松閣」 前にある亀石は奈良県吉野郡天川村で採石されたそうです。
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コメント
紫衣1つでも、いろいろあるんですね。
まあでも、凄い弟子がたくさんつく隠元さん。
きっと、いい人だったんでしょうね。
投稿: munixyu | 2015年8月16日 (日) 13:32
御無沙汰しております。
「京都のおすすめ」のamadeusです。
萬松院ですが、書かれているように直接TELしてもご住職はほとんどおられません。
しかし本文にもある萬松閣にTELすると、御住職につないで下さいますよ。
あの襖絵60面を98歳の時に、わずか3日間で書き上げられたそうです。
そのパワーに圧倒されますよ。
投稿: amadeus | 2015年8月17日 (月) 15:07
★amadeusさん お久しぶりです♪
萬松院のご住職への連絡方法を教えていただき、ありがとうございます。
コメントを読ませていただき、ますます襖絵を見てみたいと思っています。
投稿: りせ | 2015年8月18日 (火) 14:34