哲学の道の夏 浄土院へ
←目次 2006年1月27日から毎日更新しています。
五山送り火を見て思い立って、哲学の道に来ました。銀閣寺交差点(白川通今出川交差点)から大文字山が見えます。ここから東に入ると、「哲学の道」の表示があります(上の写真)。
ここは、南から北に流れてきた琵琶湖疏水分線が東西に流れるところで、春は見事な桜の花のトンネルになります。通りの南側には食堂や土産物店が並んでいます。
左の「大銀食堂」は、麺類、丼、洋食、おばんざい、定食など多彩?なメニューで、昔は地元の常連さんばかりでしたが、最近は観光客にも人気だそうです。
新しくできたハワイアンショップ。
このあたりで北から流れてくる白川と疏水分線が交差します。
疏水分線は、サイフォンの原理で白川の下をくぐっているそうです。白川は吉田山に沿って南に流れ、平安神宮の大鳥居の近くで、琵琶湖疏水(本線)と再び交差(合流)します。
朝からの雨で水たまりができて、人が通らないので写真には都合がよかったです。
東西に流れる疏水分線の東端にあるお地蔵さん。「管理地」にどんな建物が立つのか気になります。
銀閣寺参道 観光客でいっぱいで、外国人の方が目立ちました。
銀閣寺の総門前に来ました。そこから左手(北)の道は大文字山の登山口に続いているのですが、銀閣寺の北隣に「浄土院」があります。
浄土院は、享保7年(1722)に建立された浄土宗知恩院派の寺で山号は清泰山。大文寺の送り火を管理することから、大文字寺とも呼ばれます。
ここにはかって「浄土寺」と呼ばれた天台宗の寺院があり、室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失しましたが、後に再建されます。
文明14年(1482)将軍足利義政がこの地に山荘(後の慈照寺銀閣)を建立するにあたり、浄土寺は相国寺付近に移され、その後廃絶しました。
浄土寺は、有明親王の妃や子が出家(入寺)したり、その後も皇室との関係が深い寺でした。その跡を引き継ぐために、跡地に残された草堂を浄土宗の寺として復興したのが浄土院とされています。
本堂には等身大の阿弥陀如来坐像が安置されており、かって浄土寺にあった遺仏だそうです。
本堂前の建物に丹後局の立像が祀られています。丹後局(1151-1216)は後白河法皇の側近・平業房の妻でしたが、その死後、法皇の寵愛と信任を得て皇女・覲子内親王を産み、政治的にも大きな力をもつようになりました。
丹後局の美貌と権勢はすごかったらしく、唐の楊貴妃にたとえられたほどでした。その影響力は鎌倉幕府になっても続き、頼朝とも親密な関係にあったと考えられています。
その後、後鳥羽上皇の院政が始まると丹後局の威信は衰えて朝廷から退き、亡き夫・業房の所領にあった浄土寺の尼(浄土寺二位尼)になりました。当時の浄土寺が門跡寺院となるきっかけでした。
本堂には弘法大師像もまつり、8月16日の大文字送り火の時には住職が大師像前で読経して精霊送りが行われ、多くの参拝者で賑うそうです。
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コメント
万緑も光りの感じが、晩夏、秋めいてきたでしょうか。
哲学の道、これからまた秋の賑わいですよね。
投稿: munixyu | 2015年8月18日 (火) 12:50
★munixyuさん こんにちは♪
返事があまりできなくて申し訳ございませんが、いつも印象に残るコメントありがとうございます。
まだまだ暑さが続きますので、どうかご自愛ください。
投稿: りせ | 2015年8月18日 (火) 13:59