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2015年5月30日 (土)

詩仙堂 庭園と丈山の生涯

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

詩仙堂の2回目は、昨日簡単に紹介した石川丈山(1583-1672)の生涯をたどりながら、庭を見て回ることにします。用意されたスリッパを履いて、お庭に出ます。

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秀吉の天下統一の時代、丈山も官に仕えようとしたが父が許ず、やむなく13歳の時にひそかに家を出て忍城(埼玉県)にいた祖父の弟石川遠江守信光の元に行きます。至楽巣を見ながら・・・昨日の記事で、いっぱい枯山水を撮ったところです。

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16歳の時に父を失い、親戚の松平正綱が丈山の境遇に同情して家康に丈山のことを話したところ、家康は石川家は代々武勲の家柄であるとして、丈山を召出して近習としました。

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18歳の時(1600)関ヶ原の戦いに従い、家康は丈山の武勇とその忠勤を愛でて、寝所の側に侍せしめたといいます。

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25歳の時(1607)落成した駿府城が炎上し、当時5歳の徳川頼房(家康の第十一子、のちの水戸藩主)と乳母を火の中から救い出します。このことから、後年水戸家が丈山を召し抱えようとしますが、丈山は辞退しました。嘯月楼 (ちょうげつろう)

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33歳の時(1615)大坂夏の陣では、長年参禅した駿河清見寺の説心和尚に武勲を誓い出陣しますが、腸チフスにかかり生死をさまよってしまいます。そこに、母から「特別の戦功を立てなければ母は再びお前に会わない」との激励の手紙を受け取ります。この景色もサツキの詩仙堂ではお馴染み。

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丈山は意を決して秘かに先陣争いに加わり、先鋒隊の第一の武功をあげました。ところが、最後の攻城で無益の損害を避けるために一番乗りを禁止していた家康は、戦後に丈山に蟄居を命じます。

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叔父の本多正信は何とかとりなそうとしましたが、丈山は髪を切って妙心寺に入って隠退してしまいました。小さな小さな葉っぱから赤い花が飛び出していて可愛い。

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翌年、母の病を聞いて江戸に行き、看病をしながら文筆活動に励みます。その後、病気が全快した母を伴って京都に帰ります。

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友人であった儒学者・林羅山の勧めによって、その師でもある藤原惺窩(ふじわらせいか)に師事し、儒学(朱子学)を学びます。

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この頃、丈山は文武にすぐれるとの評判がたち各所から仕官の誘いを受けますが、隠退して風雅の道に親しんだ丈山は容易にきき入れませんでした。池の周りにも草餅のようなサツキ。

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でも、老母のことが気がかりで、本多出羽守のすすめもあり、紀伊の浅野長晟侯に仕えました(36歳)。抹茶をいっぱいまぶした和菓子のよう、美味しそう。

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ところが、浅野侯に仕えること数ヵ月、やがて仕官にあきたらず、壁に「白鴎(區鳥)は野水に停まらず」と書いて、京都へ帰ってしまいます。京都へ帰った丈山は、また自適の生活を送りました。

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紀伊の浅野侯のもとを去って5年後、板倉重昌が丈山の窮乏を憂い、紀伊から広島に転封された浅野侯に頼んで、丈山に再び仕えるようにすすめます。

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客人待遇で千石を給するとのことで、丈山は老母に孝養を尽すために再び浅野侯に仕えることにしました(41歳)。詩仙堂も四季折々に撮っていますので、過去記事も見て下さいね。

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丈山の広島在住は前後14年間に及び、その間にしばしば京都に出向き、老母を名勝地に伴ったそうです。池の周りの花はこれから咲きだします。

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丈山53歳の時に母が亡くなり、引退を願い出ますが藩主はなかなか許しません。ついに病気療養のため有馬温泉に行くと称して、広島を去ってしまいました(54歳)。残月軒も青もみじの中。

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京都に戻った丈山は相国寺の近くに睡竹堂(すいちくどう)を造り住みます。そして、終(つい)の棲家(すみか)に適する地を探し、丈山59歳になってようやく洛北の一乗寺村に凹凸?(おうとつか)を建てたのです。

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その建設費は、丈山が愛蔵する書籍を売り、衣食を節して捻出したもの、あるいは、浅野侯が、丈山は有馬に入湯し、ついで京都に帰ったもので、正式に辞職したものではないとして、4年間の俸禄四千石を給付したからであるともいいます。

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丈山は中国歴代の詩人を36人選んで三十六詩仙とし、狩野探幽に肖像を描かせて堂内に掲げました。このことから凹凸?は詩仙堂の名で知られるようになりました。ここは最も下の庭(4段目) 向こうに十方明峰閣(坐禅堂)が見えます。

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丈山はこの詩仙堂で学問に没頭し、隷書、漢詩の大家としても知られ、わが国における煎茶(文人茶)の開祖とも言われるようになりました。また、東本願寺・渉成園や一休寺にも丈山作庭と言われる名園があります。

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丈山は詩仙堂で30年余りを過ごし、90歳でその生涯を閉じました。

丈山考案の僧都(鹿おどし)が今でも音を響かせています。

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コメント

さつき、綺麗に刈り込まれていて、
手入れが行き届いていて、いいよね。

投稿: munixyu | 2015年5月30日 (土) 14:44

★munixyuさん こんにちは♪
サツキの種類が違うのか、刈り込み方が違うのか、、、見事にピンク一面になるのと、緑の葉っぱの上に花がポツンポツン。
どちらもいいですね。

投稿: りせ | 2015年5月31日 (日) 10:53

改めて詩仙堂=学生時代に修学旅行に一度だけ行った、を見ました。
石川丈山の生涯初めて読ませて頂き良い勉強になりました。有難う御座います。京都の庭といえば石庭とばかり思いますがこの様に自然風の丈山の庭も有るのかと、、先日正月休みに石岡庭師の動画を見て驚きでした。
小さな石10個ほど準備し60センチ四方の箱庭シュミレイションで将棋をする如く楽しんでいた。まるで石の並び方をコンピューターを使って学ぶが如く、一人いじっているのを見てさすが一流の庭師はやる事が違うと思いました。石自体の持つ顔をどう取るかですね。私が11月に日本を訪問した際に大正六年ごろ松本幾三郎氏作庭の庭に招待され見ましたが驚きでした良くあれだけ石=200トン以上を集め作庭したかと、約40分ほど正面からずっと眺めていた時、招待した方に「まるで超美人の女性を眺めているが如く全く飽きない、庭は百年二百年といつ迄も綺麗だが、女性は年と共にシワが出てしまう、でも庭は常に飽きない美しさを保つ」と言ってしまいました。其れが真の美だと思います=日本庭園気狂いからの言葉です

投稿: こんたに | 2017年1月 4日 (水) 00:47

★こんたにさん こんばんは♪
日本庭園と女性との比較はちょっと?ですが、確かに石庭は美しさが変わらないといえるでしょうね。でも、苔や植生があり、水が流れて池があるような庭では、庭は自然に変化していきます。庭師は作庭者の意図を思いながら、常に手を入れる必要があるそうです。いずれにしても美を保つのは大変だということでしょうか。

投稿: りせ | 2017年1月 5日 (木) 00:30

ツツジと言えば、昔に行った京都学書院でのツツジは綺麗でした。池の南側に大きなツツジの低木があり、大したものでした。

投稿: こんたに | 2017年1月 7日 (土) 08:08

失礼します、修学院の間違えです。学書院は私の書道の会です。
申し訳ありません。

投稿: こんたに | 2017年1月 7日 (土) 08:11

★こんたにさん こんばんは♪
修学院離宮のことですか? 広々した敷地に四季の花々が綺麗ですね。でもツツジの頃に行った記憶がないので、見てみたいですね。

投稿: りせ | 2017年1月 7日 (土) 21:26

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