月読神社から最福寺跡へ
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先日松尾大社の山吹を見た後、山裾沿いの道を南に歩いていくつかの古刹を訪ねました。松尾大社から10分程度のところに「月読(つきよみ)神社」があります。
月読神社は顕宗天皇の3年(437)阿閉巨事代(あべのおみことしろ)が仁那で神のお告げを受け、京に帰り天皇に奏上して、山城国葛野に神領を賜り、月読尊を祀る神社を創建したのが始まりだそうです。
斉衝3年(856)文徳天皇の時に、水害を避けて現在の地に移りました。ここは秦氏の勢力圏内なので松尾大社の摂社になったようです。
境内を見て回ります。本殿 江戸時代の建立で檜皮葺。
本殿右にある「聖徳太子社」は、太子が月読尊を信じられていたので太子の徳を称え祀ったといわれています。
さらにその右には「月延石」は石を撫でて子授け、安産を祈願する。神宮皇后による新羅攻略の際に、懐妊中で石を腹に抱いて出征し、その石を取ると安産したという伝承による。
本殿左に「御船(おふね)社」 祭神は天鳥舟命、航海や交通安全の信仰を集めているとのことです。
願掛け石 左右の石をなでて祈願するのだそうです。
その左には「解穢(かいわい)の水」 山中から流れ出て、自己の罪や穢れを除くとか。
舞殿になぜビニールが張ってあるのか分かりませんでした。
山門を出ると、鳥居の横に「押見宿祢霊社遺跡」の石碑が立っていました。そこには、月読神社の創建時に、伊岐県主の祖・押見宿祢(おしみのすくね)が祀官に就き、以後、子孫もその職につき姓を伊岐と称した。9世紀に水害によりこの地に遷り松室氏と改称した。
12世紀初めに、二条天皇皇后・六条帝の母・育子を出し、江戸時代には17分家に分かれ、男子は非蔵人、女子は御局として宮中に仕える者を多く出した。そして、近代に同族は四散したと書かれています。ここから更に南に歩きました。
5,6分すると道脇に「開山延朗上人旧跡地」という石碑が見えます。奈良時代末期に、この地に「松尾山寺」がありましたが、平安時代の1159年に「平治の乱」により焼失したといいます。向こうの建物は、谷ヶ堂(延朗堂)
松尾山麓の神宮寺に住していた延朗(えんろう)は、1176年この地に天台宗寺門派の最福寺の七堂伽藍を建立しました。
延朗(1130-1208)は、但馬に生まれ幼くして父母を喪い15歳で出家しました。義経による最福寺への丹波国亀岡篠村の施入(寺領として寄進)に際しては、村人に免租や富民の善政を施し、悪病難病の治療のために寺に浴室を造り、自ら病人を治療したといいます。「さしのべ観音」 延朗800年大遠忌祈念に建立されたものです。
多くの民衆の救済に献身した延朗を、人々は「松尾の上人」と呼んで尊敬したといいます。
鎌倉時代の1331年、後醍醐天皇の勢力を中心とした鎌倉幕府討幕の「元弘の乱」により最福寺は焼失してしまいます。
室町時代の「応仁・文明の乱」(1467-1477)では、東軍・山名右馬助らが最福寺に布陣し、西軍・畠山義就に攻められ焼失しました。さらに、1571年に織田信長が比叡山を焼討した「元亀の乱」でも、焼失してしまいました。お地蔵さん
その後最福寺は再興されることなく、現在では小さな谷ヶ堂が残っているだけとなりました。
「平治、元弘、応仁、元亀の乱 戦火ゆかりの地」 ・・・。
毎月12日(延朗上人の命日)午後1時から谷ヶ堂が開帳され、延朗上人坐像を拝むことができます。旧最福寺本堂の阿弥陀像は嵯峨正定院に遷され、近くの華厳寺(鈴虫寺)には遺物の瓦が残っているとか。
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コメント
月読神社。
緑とその静かさがいいですよね。
投稿: munixyu | 2015年5月14日 (木) 12:31
ビニールなんでしょうね。。。何か修復でもするのかなぁ。。
明るくて清々しい感じがいいですね~
最幅寺は無くなってしまっても延朗さんの善行は人々の記憶に残ったんですねぇ。。
そういう記憶を辿れるのも京都の良さかな
投稿: ばるさろ | 2015年5月14日 (木) 22:05