平安神宮 蒼龍・白虎の手水台
←目次 2006年1月27日から毎日更新しています。
この日の平安神宮は人出が少なくて、久しぶりにそれぞれの建物の写真を撮りました。平安神宮は明治28年(1895)に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として、平安京遷都当時の大内裏の一部を実物の8分の5の規模で復元されたものです。楼門は応天門を模しています。
博覧会に先だって、平安遷都を行った桓武天皇を祀る神社として創祀され、昭和15年(1940)には、平安京で過ごした最後の天皇、孝明天皇が祭神に加えられました。楼門をくぐると、正面に拝殿、そこから歩廊でつながる蒼龍楼(右)と白虎楼(左)
楼門のすぐ脇に、蒼龍(青龍)と白虎の手水台があります。平安京は四神相応の思想に基づいて築かれたといわれ、四つの方角を守る神のうち、青龍(東)と白虎(西)を表わしています。
後ろから見ると、奉納者として「貴族院議員 小室信夫」の名前があります。小室信夫(こむろしのぶ)は幕末から明治にかけて活躍し、波乱万丈の人生を送った人物です。以下では、彼の人生をたどりながら境内を見て回ることにします。
*以下の小室信夫についての記述に誤りがあると、「信夫の曾孫」さんからご指摘がありました。ここではあえて訂正しませんので、16年12月15日付の「信夫の曾孫」さんのコメントを合わせてご覧ください。
小室信夫は天保10年(1839)に丹後国与謝郡(現在の与謝野町)で生まれ、生家は生糸縮緬商を営む豪商・山家屋でした。
やがて、京都の山家屋を任されて京都に在住します。その頃、高まりを見せていた尊王攘夷運動の志士たちと交わるようになりました。
文久3年(1863)に「足利将軍木像梟首(きゅうしゅ)事件」が起こり、京都が騒然となりました。この事件は、平田派国学の有志を中心とする尊王過激派がひきおこしたものですが、小室も仲間として加わっていたのです。こちらは白虎の手水台
事件は、等持院に安置されていた歴代の足利将軍の木像のうち、尊氏・義詮・義満の像が持ち出され、三条河原に造られた獄門台に梟首(さらし首)にされたというものです。
「逆賊」の足利将軍の首をはねてさらすことにより、現在の徳川幕府を糾弾し、将軍家茂の上洛を牽制する狙いがあったと考えられています。二つの手水台の上部は昭和30年に新たに寄贈されたものです。
京都守護職に着任して間もない松平容保は激怒し、徹底的な捜査を行うように指令しました。小室は、各地を転々と逃亡する日々を送りますが、結局逃げることを断念して京都の徳島藩邸に自首をします。楼門の内側、大鳥居が見えます。
これは、一緒に逃げていた仲間が徳島出身だったからですが、徳島藩は取り扱いに困り幕府にお伺いをたてます。この時には既にほとぼりが冷めていたからか、幕府からは「貴藩にて預かれ」という回答でした。額殿
そこで徳島藩は二人を藩邸に幽閉し、小室は5年もの間外出も許されない生活を送ることとなります。
明治維新になり状況が一変します。明治政府からは各藩に有能な人材を出仕させよと指示が出され、倒幕に功績のあったものが重用されました。
ところが、佐幕派の徳島藩の家臣には、明治政府が望むような人材が見当たりません。そこで、幽閉中の小室信夫に目をつけます。例の事件が、一転して輝かしい経歴になったのです。
徳島藩は、小室を釈放して徳島藩の家老級の身分として新政府に出仕させました。小室は、明治元年徴士・権弁事、岩鼻県知事、明治3年徳島藩大参事、明治4年左院三等議官などを務めました。
明治5年には、在籍していた左院から政治研究のためにフランスやイギリスの視察に派遣され、留学のためにイギリスに渡る元藩主・蜂須賀茂韶と同船しました。信夫は渡欧した年に官位を返上して視察団から別れ、イギリスで鉄道事業についての研究に没頭しました。拝殿
これが、その後の小室の活動の契機になり、帰国後の明治7年(1874)、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・由利公正・古沢滋との連名で、左院に民選議会(国会)の開設を要望して、「民撰議院設立建白書」を提出します。
この建白書が後の自由民権運動の発端となるのですが、その文案を起草したのが小室信夫です。小室がヨーロッパ事情に詳しいことを聞きつけた後藤が、文案の起草を依頼したのです。
一方で、小室は日本初の政党「愛国社」の設立に加わり、徳島の地域政党「自助社」を設立しました。
その後、小室は実業界へと転身し、 明治16年(1883)に梟首事件で世話になった品川弥二郎・渋沢栄一らと共同運輸会社(日本郵船会社)を設立し、他にも第百三十国立銀行、奥羽鉄道、京都鉄道、小倉製糸など 多くの会社を起業して社長や重役を務めました。神楽殿
京都鉄道は後に国に買収されて山陰線の一部となりますが、本社屋を兼ねた二条駅駅舎は日本最古の木造駅舎で、現在梅小路蒸気機関車館の資料展示館として利用されています。また、断崖絶壁に線路を敷設し、多数のトンネルや橋梁を設ける難工事て開設した保津峡の区間には、嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車が走っています。
小室は、明治24年(1891)に貴族院議員となり、明治31年に59歳で亡くなります。
平安遷都1100年を記念する平安神宮に対して、晩年の小室信夫はどのような思いで手水台を寄進したのでしょうか?
最後に、励みにしていますので、ブログランキングの応援のクリック↓をお願いします。
★こちらを是非よろしく→ ブログ村→
-------------------------------------------------------------------
| 固定リンク
「 4 平安神宮の四季」カテゴリの記事
- 睡蓮も綺麗 平安神宮神苑(2015.06.08)
- 花菖蒲 平安神宮 神苑 (2015.06.06)
- 平安神宮 緑の神苑(2015.05.27)
- 平安神宮 蒼龍・白虎の手水台(2015.05.24)
- 平安神宮 神楽殿 (2015.02.06)
コメント
平安神宮 久しぶりに中を見た気がします。。修学旅行で行ったきりだなぁ。近くをうろついてることはありますけどねw
小室信夫さんの話は知りませんでした。。。歴史の教科書には出てたかもしれないですが記憶にありません!wこれだけ波乱万丈で59歳で亡くなるのはもったいない。。。ドラマになりそうな人生ですね~
投稿: ばるさろ | 2015年5月24日 (日) 08:35
平安やそれ以前の建物は広いものが多いよね。
散策するのは大変そうだけど、この特徴的な広さがいいよね。
投稿: munixyu | 2015年5月24日 (日) 13:50
こんばんわ。 京都はどの季節の風景もすてきです~
そして、一つの石造物にも、歴史がギュッと詰まっている・・という視点で見る事ができるんですね。
今日の最後の写真、りせさんの後ろ姿でしょうか?
投稿: gomunoki | 2015年5月24日 (日) 21:22
★ばるさろさん こんばんは♪
私はなんにも知りませんでした。
投稿: りせ | 2015年5月24日 (日) 23:27
★munixyuさん こんばんは♪
平安神宮の神苑は花が多いです。
この時期もうすぐ花菖蒲で無料公開になります。
投稿: りせ | 2015年5月24日 (日) 23:29
★gomunokiさん こんばんは♪
京都市内には歴史ある石碑とか銅像が結構ありますが、知らないものが多いです。歴史に疎いので恥ずかしいかぎり。
最後の写真の方は私じゃないです。
投稿: りせ | 2015年5月24日 (日) 23:33
小室信夫が寄贈した一対の手水鉢。
平安神宮建立のタイミングでの寄贈ですよね。
尊皇攘夷派だったこともあっての寄贈だったのでしょうね。
小室信夫は政財界において渋沢栄一とともに日本の近代化を強力に推し進めた人物です。
傍らでは艶満家の一面もあり、お妾さんもたくさんいたようです。
東京では鍋島藩の下屋敷を譲り受けて住まいにしていました。
豪商の出ですから何かと裕福だったようです。
京都で攘夷活動をしていた連中の資金源でもあったようですね。
投稿: 信夫の曾孫 | 2015年7月16日 (木) 11:17
★信夫の曾孫さん 初めまして♪
コメント有り難うございます。
手水台に書かれた名前を見て小室信夫さんのことに興味を持ちました。
貴重な情報有り難うございました。m(_ _)m
投稿: りせ | 2015年7月16日 (木) 23:38
ちなみに信夫の欧州視察は蜂須賀茂韶に従って行ったのではなく、当時在籍していた左院からフランスやイギリスの政治研究の為に高崎正風らと共に派遣されました。
同じ船に下野した直後の茂韶夫妻が留学目的で乗船していたわけで、信夫は自分の次男で9歳になる三吉を茂韶に託してイギリス留学させました。
信夫は渡欧した年の十月に官位を返上して視察団から別れイギリスで鉄道事業についての研究に没頭します。
その後 一年ほどして帰国したタイミングで板垣退助、古澤滋らと民撰議院設立建白書を左院に提出することになります。
その後は政治の裏側で活躍し、また実業家としても銀行や紡績、製紙会社や私鉄などの設立に関わりました。
明治維新で人生が大きく変わった一人ですね。
投稿: 信夫の曾孫 | 2016年3月10日 (木) 09:34
★信夫の曾孫さん こんばんは♪
小室信夫さんの詳しい情報を教えていただき、ありがとうございました。記事の中で該当箇所を訂正しました。
投稿: りせ | 2016年3月11日 (金) 23:02
お久しぶりです。
読み返して訂正箇所を発見しました。
信夫が京都の徳島藩邸に自首したとの記述がありますが、事件直後に逃げ込んたのが京都の徳島藩邸で、逃亡のすえ、共に逃げていた中島永吉と禁門の変で長州へ向かう七卿落ちの公家達を徳島か土佐に逃そうと画策していた事を知った佐幕派の徳島藩が永吉を拘束、その永吉と生死を共にと誓っていた信夫は自ら徳島藩に自分も捕縛するように願い出たのが真相です。
これは京都の徳島藩邸ではなく、四国の徳島藩邸に願い出たのです。
それから蜂須賀家とのつながりが出来たわけです。
明治五年に渡欧した信夫。
蜂須賀茂韶に預けた7歳の息子 三吉はロンドンのユニバーサルカレッジに入り18歳までイギリスで過ごし帰国、東京商業大が(現 一橋大学)に入り、その後 三井物産に就職。
英語が堪能だった為、三井物産の海外戦略の要となり世界各地の支店長を歴任し、三井物産の理事となりました。
三井物産に入ったのも父 信夫が三井物産の前身である専収会社の創業者の井上馨と懇意だった事もあるのでしょうね。
投稿: 信夫の曾孫 | 2016年12月15日 (木) 00:37
★信夫の曾孫さん こんにちは♪
お久しぶりです。記事の誤りについて、詳しく説明していだだきありがとうございます。
私のブログは写真を優先して、説明は数行までということにしています。そこで、記事の内容をそのままにして、誤りがあるので、信夫の曾孫さんのコメントを合わせて読んでいただくように書き加えました。大変詳しくその当時の事情を説明していただき、興味のある方にはコメントをぜひ読んでいただきたいと思いましたので、ご理解ください。
投稿: りせ | 2016年12月15日 (木) 12:05