方広寺の鐘 迦陵頻伽が飛び廻る
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方広寺といえば・・・豊臣氏滅亡の原因となった「国家安康、君臣豊楽」の鐘。
方広寺は豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として創建されました。当時の敷地は広大なもので、妙法院、現在の豊国神社、京都国立博物館、三十三間堂の敷地をも含むものであった。 ◆地図です。
国立博物館西側から豊国神社に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣です。
三十三間堂南に遺る太閤塀や南大門(秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものです。東寺の南大門は方広寺西門を明治になって東寺に移築したもの。
※当ブログで過去に記事にしたものの1部を紹介します。
方広寺 (ほうこうじ)
天台宗山門派の寺で豊臣秀吉により建立された。大日如来、大黒天を祀る。
天正14年(1586)、秀吉により奈良・東大寺に倣った大仏殿の造営が開始され、文禄4年(1595)に完成。
東大寺の大仏より大きい18mの大きさであったという。また釘などは刀狩で没収した武器の再利用されたものも使われた。しかし慶長元年(1596)に地震により倒壊した。その後豊臣秀頼により再建されたが、寛政10年(1798)に落雷による火災で焼失した後は同様の規模のものは再建されなかった。
大仏殿は2000年の発掘調査により東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明している。
大仏鐘銘事件(1614)
方広寺の再建に際し鋳造した大鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文(京都南禅寺の禅僧文英清韓の作)が、家と康を分断し豊臣を君主とするものだとして徳川家康の怒りにふれ、大坂冬・夏の陣を引き起こし、豊臣氏滅亡の原因となりました。
この大量の文字列の中からこの部分をよく見つけましたね
・・・単に大坂の役の口実を家康が作りたかっただけという説もわかります。
大仏は台座の一部などが現存します。大仏殿の遺物としては他に柱の金輪、屋根の軒先に吊されていた風鐸が残されている。
本堂
ガラス戸越しから・・・
鐘楼の天井には見事な極彩色の画が描かれています。
迦陵頻伽 迦陵頻迦 (かりょうびんが)
日本の仏教美術では有翼の菩薩形の上半身、鳥の下半身の姿で描かれており、仏教における想像上の生物。共命鳥とともに極楽浄土に住むとされます。
殻の中にいる時から鳴きだすとされ、声仏の声を形容するのに用いられるほどに非常に美しい。「妙音鳥」、「好声鳥」、「逸音鳥」、「妙声鳥」とも意訳される。日本では美しい芸者や花魁、美声の芸妓を指してこの名で呼ぶこともあった。
一般に、迦陵頻伽の描かれた図像は浄土を表現していると理解され、同時に如来の教えを称えることを意図します。
以上説明はWikipediaですが、
迦陵頻伽が見られるのは京都では・・・知恩院、妙心寺、東福寺の三門楼上の天井画に描かれている・・・とあります
上記三門は特別公開でしか見れませんが、ここでは毎日飛び廻っていますよ。Wikipediaに追記するべきでしょうか・・・
鐘楼に入るのに、以前はわざわざ開けてもらって100円だったのですが、今は「志納」ということで、扉は開いています。
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コメント
大仏鐘銘事件、むちゃくちゃですね。
ただの言いがかり?
まあ、戦の口実がほしかっただけなんだろうけど・・・汗。
投稿: munixyu | 2014年10月18日 (土) 12:52
★munixyuさん こんにちは♪
私にはそのあたりサッパリ。
投稿: りせ | 2014年10月19日 (日) 09:17