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2013年10月23日 (水)

岩倉 大雲寺とその周辺

目次 からたっぷり京都をご覧ください。2006・1・27から毎日更新。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の記事で紹介した石座(いわくら)神社を出たあと、隣の大雲寺を訪れました。

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途中にある三面石仏 鎌倉時代作の阿弥陀如来坐像です。脇侍として右に十一面観音立像、左に地蔵立像が彫られています。TOPの写真のように、ある大きな石仏です。

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隣にある万里小路(までのこうじ)中納言藤房卿髪塔。藤房は後醍醐天皇の側近として仕え、元弘の変では鎌倉幕府倒幕計画に参加。後に捕えられ、下総国に流された。建武の新政後に復帰して中納言になりました。

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ところが、天皇の側近重用を諫めるも聞き入れられず、新政権に失望して出家して岩倉に隠遁しました。近世では、後醍醐の逆鱗に触れながらも、親政の非を直言する勇気ある姿勢から、平重盛、楠木正成と共に「日本三忠臣」として高く評価されました。

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紫雲山大雲寺 天禄2年(971)に日野中納言藤原文範が真覚を開山として創建し、当初は園城寺(三井寺)の別院でした。文範は紫式部の曽祖父、真覚は藤原敦忠の子で、980年には円融天皇の勅願所となります。

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天元4年(981年)、天台宗の寺門派(園城寺)と山門派(延暦寺)の対立から、余慶が一門の僧数百人を連れて大雲寺へ移りました。 

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永観3年(985)には、冷泉天皇中宮・昌子内親王により、観音院が建立されました。本尊の十一面観音は、聖武天皇の姿を写した行基の作といわれ、かっては内裏に伝来した像を真覚の祖父にあたる藤原時平が下賜されたものです。

下は現本堂

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最盛期の大雲寺は、数十の堂宇と千余人の僧を擁する洛北屈指の大寺院でした。「源氏物語」、「太平記」、「好色一代女」などにも寺が登場するそうです。

境内にある唯一古そうな建物

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その後の寺門・山門の抗争により、寺門の拠点・大雲寺はたびたび焼失し、保延2年(1136)には残っていた伽藍が全焼しました。

阿伽井堂双龍大権現

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元亀2年(1571)には、織田信長の比叡山焼き討ちに際して大雲寺も焼失しました。

参道の入り口にあるお地蔵さま

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往時の大雲寺の隆盛を知ると、現在の姿は少しさびしい気がします。それでも、秘仏や宝物の全てが現本堂に保存され、いまなお「脳病平癒の御利益」を求めて参拝者が絶えないそうです。

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 4 八瀬 岩倉 修学院 宝ヶ池」カテゴリの記事

コメント

昔は、焼き討ちとかあって、大変だったんだなと、しみじみ、思います。
お地蔵様が、疲れた心を、癒してくれそうですね。

投稿: ごま | 2013年10月23日 (水) 10:12

燃えても燃えても立ち上がる大雲寺。
うん、ある意味、火の神様といえるのかも。
いや、復興の神様なのかもしれませんね。

投稿: munixyu | 2013年10月23日 (水) 13:44

★ごまさん、munixyuさん こんばんは♪
実相院には何度も行っていますが、隣に行くのは初めて。
まだまだ知らない京都が多いです。

投稿: りせ | 2013年10月24日 (木) 00:42

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