岩倉具視幽棲旧宅
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岩倉の実相院から歩いて2,3分のところに、岩倉具視が一時期ひそかに暮らしていた「岩倉具視幽棲旧宅」(国指定史跡)があります。上は表門、下は通用門でこちらから入ります。
通用門を入って右手に事務所、その奥に「対岳文庫」があります。
対岳文庫は、岩倉具視遺品類や明治維新関連文書などを展示・収蔵するために、昭和3年に建設されました。鉄筋コンクリート平屋の建物で、京都市庁舎本館も手掛けた建築家武田五一(京都帝国大学教授)の設計によります。
岩倉具視(1825-1883)は幕末から明治期の代表的な政治家で、「維新十傑」にも数えられます。参議正三位堀河康親の次男として生まれ、天保9年(1838)に公卿岩倉具慶(ともやす)の養子となります。
岩倉は、安政元年(1854)には孝明天皇の侍従となり、しだいに朝廷内において台頭して発言力を増していきます。
そのような中で公武合体を進めるため、文久元年(1861)孝明天皇の妹・和宮の将軍家への降嫁を推進したことにより、尊皇攘夷派から佐幕派の巨頭と見られるようになりました。
中庭 左が主屋、正面が繋屋、右が附属屋
翌文久2年(1862)には攘夷運動の高まりの中で、岩倉の弾劾・排斥の動きが高まり、ついに孝明天皇にまで親幕派と疑われ、蟄居処分、辞官と出家を申し出るよう命じられます。
攘夷強行論者はさらに重い処分を要求し、岩倉に洛中からの追放令が出されました。そこで、長男の具綱が探したこの住居に移ったのです。こちらは購入当初からあった附属屋。
この附属屋に新たに繋屋と主屋を増築しました。
以降、洛中への帰参が許される慶応3年(1867年)までの5年間この地に幽棲しました。
元治元年(1864)の禁門の変(蛤御門の変)で京都の攘夷強行論者が一掃されたことにより、岩倉の発言力が増し、薩摩藩や朝廷内の同志たちが再び岩倉を訪れるようになりました。裏庭にある井戸
慶応元年(1865)の秋頃からは、岩倉自身も政治意見書を朝廷や薩摩藩の同志に送るなどの活動を行うようになりました。この頃には、立場を公武合体派から倒幕派に変更しています。下は中門
慶応2年(1866)末に孝明天皇が突然崩御し、慶応3年(1867)1月に明治天皇が即位し、この年の11月になって岩倉はようやく正式に赦免されました。下は岩倉具視の遺髪碑と
子息の具定、具経の碑 毎年7月20日には関係者による慰霊祭が行われているそうです。
平成20年から4年間、京都市が国庫補助を受けてこの旧宅の本格的な修理を行いました。
平成25年初め、この旧宅は長年管理してきた「岩倉公旧蹟保存会」から京都市に寄贈され、6月1日から新たに一般公開が開始されました。
もう陽が傾いてきました。この日は、この旧宅以外に雀寺、小町寺、恵光寺、石座神社など初めて訪れたところが多く、記事にするのにずいぶんと日にちがかかってしまいました。
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コメント
昔の建物が残っていて、いいですね(^_-) 竹の編んだ物は、屋根でしょうか?竹と青もみじの写真がいいですね(^_-)
投稿: ごま | 2013年10月24日 (木) 10:15
なんとなく洋館っぽくみえて、中身の主屋はおもいっきり和って
いうのが面白いですよね。
大きな藁の屋根が、古い感じでいいですねぇ♪
投稿: munixyu | 2013年10月24日 (木) 13:25
★ごまさん、munixyuさん こんばんは♪
実相院に行った後、ここへ来ること・・・ついつい来そびれているうちに修復工事になってしまって。。。
工事が済んだら即来ようと思いつつ随分経ちました。
投稿: りせ | 2013年10月24日 (木) 22:38