安楽寿院と鳥羽離宮跡
←目次 からたっぷり京都をご覧ください。2006・1・27から更新。
昨年秋、特別公開の安楽寿院に行きました。京都の南に位置した鳥羽離宮の東殿に鳥羽上皇が造営した仏堂を起源とする皇室ゆかりの寺院です。
安楽寿院(あんらくじゅいん) ◆地図はこちら。京都市伏見区竹田中内畑町74
平安時代、平安京の南の鳥羽は南には池が広がり、水鳥が群れる風光明媚な地でした。この池の畔に離宮が造られ、技術の粋を尽くした御殿が建ち並びその美を競っていといいます。この鳥羽離宮の東殿に保延3年(1137)御堂が建てられました。これが安楽寿院で、その名のとおり、浄土教に基づき極楽浄土を希求するため阿弥陀三尊を本尊としています。その後、本御塔、九躰阿弥陀堂、閻魔堂、不動堂、新御塔が次々落慶し一応の完成。当時の寺領は膨大なもので今の茨城県から九州の間に散在し、最盛期には32国63ヶ荘に及んでいました。
その後、南北朝争乱に巻き込まれ寺領の多くを失い、徐々に寺の規模を縮小。桃山時代に豊臣秀吉より近辺の五百石分の寺領はあらためて保証する旨の朱印状を頂戴し、江戸時代も徳川歴代将軍より寺領を安堵され運営されてきました。江戸期には十二院五坊の塔頭を要する学山として多くの学匠を輩出しています。 (安楽寿院のHPより)
鳥羽天皇安楽寿院陵
近衛天皇安楽寿院南陵。現在の多宝塔は慶長11年(1606)豊臣秀頼により、片桐且元を普請奉行として再興されたもの。
現在の安楽寿院は真言宗智山派。
境内は京都市史跡に指定され、平安時代の三尊石仏、鎌倉時代の石造五輪塔(重文)、冠石が現存し、孔雀明王画像、阿弥陀聖衆来迎図、普賢菩薩画像(いずれも鎌倉時代、重文等)を所蔵しています。
安楽寿院は鳥羽伏見の戦いのおりには官軍(薩摩軍)の本営となったところ。
書院・庫裏が特別公開されていました。中は撮影禁止の為に門の外から。
寛政7年(1795)の建立。書院と庫裏は同じ建物ですが内部で便宜上分けられています。この建物は元々「前松院」という塔頭寺院であったものです。
◆安楽寿院と鳥羽離宮について詳しくは→こちらを読んでくださいね←Wikipedia
鐘楼 左は阿弥陀堂 - 本尊阿弥陀如来坐像を安置。昭和34年(1959)建立。
大師堂
大師堂は慶長元年(1596)の山城、伏見の大地震の時に新御塔が倒壊。そのとき一時しのぎで集めた材料で、建てられました。
弘法大師像を本尊。他に大日如来、薬師如来、聖観音、十一面観音、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、歓喜天など旧塔頭の仏様がお祀りされています。
大師堂、横から
三宝荒神社
手水舎と龍 向こうに三如来石仏
三如来石仏 (石造三尊像)
釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊と呼ばれる平安時代の3面の石仏で、江戸時代に出土したと伝えられています。
もっとも保存状態のよい阿弥陀三尊像は京都国立博物館に寄託されています。(博物館の前庭に設置)。
もろい凝灰岩でできており、昔はこの石仏のお体を削って水で練り子供の顔に塗ると、くさが直るという信仰があったため傷んでいます。
こちらが、国立博物館に置かれているもの。
収蔵庫「本御塔」の外からお庭を
本阿弥陀如来座像(重文) (ポスター)
鳥羽上皇の念持仏と伝えられている。像高87.6cmの寄木造りの像で、胸の中央に卍が書かれているため、「卍字の阿弥陀」とも呼ばれる。
石造五輪塔
鎌倉時代の弘安10年(1287)の年号が刻まれています。高さ3m、(重文)。
冠石
埋蔵文化財・特別展示場へ 写真撮影・可ですって
鳥羽離宮跡
伏見区竹田・中島・下鳥羽。平安時代後期に白河・鳥羽・後白河上皇が造営の離宮があり院政を行ったところ。鳥羽殿とも。東西1.55キロ、南北1キロの広大な敷地に苑池・各殿舎・堂塔が建ち並んでいた。今は安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみ。史跡公園。市バス城南宮道すぐ。
◆城南宮はこちらにたくさん載っています→城南宮の記事
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コメント
今でも「くさ」の言葉、通じるやろか。(´д`)
ふ~ん。「しんどいわ。」難しい返事やな。
投稿: Tacchan | 2013年2月 5日 (火) 10:14
昔は、かなり、大きな敷地があったんですね。立派だったんでしょうね。
石仏が削られているのが、かわいそうです(;_;)
卍の阿弥陀様の金色のきれいなこと、神々しいです。埋蔵されていたのが、大切にされていて、いいことだなと思いました。
投稿: ごま | 2013年2月 5日 (火) 10:26
★Taccha~n こんにちは♪
主人が定年になったら、私一人頑張るの嫌だから私もブログは定年のつもり。しんどかったえ・・・。
くさの前に「、」入れておいた。「くさ」・・・私もよう分かりません・・・カサカサ、ガサガサになって、肌が荒れるんやと思うけれど。
投稿: りせ | 2013年2月 5日 (火) 11:55
★ごまさん こんにちは♪
石仏さん・・・削られたのも歴史ですね。子を思う親心、身近な仏様だったんですね。
投稿: りせ | 2013年2月 5日 (火) 11:58
あたりまえなのかもですが建造物は
造られた時代などによって同じ京都といえど
雰囲気や空気のようなものが違って、うん、いいもんですよね
離宮みたいな巨大空間となってくると、よくわかって
いいですよね♪
投稿: munixyu | 2013年2月 5日 (火) 13:57
再コメントです。
「はたけ」とか「くさ」と言うた気がする。
「あの子のそば寄らんとこ、うつるといややから」と。
これも「いじめ」の一種だったかも・・・。(^-^;
投稿: Tacchan | 2013年2月 5日 (火) 14:59
★munixyuさん こんにちは♪
鴨川の位置が随分変わっていて、今とは地形変化が・・・
今でも発掘やってるんですね。
この地域もう少し行ってみたいです。
投稿: りせ | 2013年2月 5日 (火) 18:33
★Taccha~n 再こんにちは♪
くさ、はたけ・・・おでき・・・
昔は良い薬が無かったんやねえ。石仏の粉ってホントに効いたんやろうか。
やっぱり神さんにでもすがりたい親心やねえ。
投稿: りせ | 2013年2月 5日 (火) 18:37