出水の七不思議と聚楽第 立本寺も
←新しく来て下さった方は目次もご覧くださいね。
※写真は全て拡大します。
どの写真をTOPにすればいいか、話の順序をどうすればいいか・・・
そんなことを考えてると、深夜の貴重な時間があっという間に過ぎますので・・・ちゃっちゃとやってしまいますね。
「出水の七不思議」の残りと「聚楽第の散歩」と適当に題してお送りします。
どこを歩いたのか・・。地図には小さな寺院名は載って無くて詳しいコースは分かりませんので、◆地図は今日紹介の立本寺を中心にしました。
松林寺です。石碑「此の付近 聚楽第南外濠跡」。
門前が前に深く落ち込んでいます、秀吉の建てた聚楽第の堀の跡という事です。
さて・・・「出水の七不思議」の残っている3寺院をお届けします。
・極楽寺 両袖の潜り戸 金谷水 ・玉蔵院 円山応挙の幽霊掛け軸
・観音寺 泣く山門 ・地福寺の日限薬師
・極楽寺 (三番町)
普通の門には小袖門は一つですが、この門には左右両方あります。理由は分からないそうです。また、この寺にある井戸水は北野の茶会に用いた金谷水(きんこくすい)。
・観音寺 (三番町) 泣く山門 「百たたきの門」
観音寺 (京都Navi)
慈眼山と号し、浄土宗に属する。慶長12年(1607)、梅林和尚が一条室町に創建。
その後、天明の京都大火に遭って、建物をはじめ記録を焼失してしまったので、正確な寺史は困難となっている。山門は旧桃山城の牢獄の門を移建したものといわれ、罪人を釈放するに当たってこの門前で百回たたいたと伝えられ、「百たたきの門」と呼ばれていた。 また、門の扉は楠の一枚板でできており、「出水の七不思議」の一つに数えられている。
風が吹くたびに、潜り戸が開き、泣き叫ぶ人の声が聞こえたといわれるが、住職が百日間の断食と鎮魂の念仏を唱えたことにより、人の声は聞こえなくなったといわれる。現在門は開け放たれているが、この潜り戸だけは二度と開かれないようになっている。
境内の観音堂の本尊は運慶の弟子安阿弥の造顕といわれ、堀川一条にあって1390年に疫癘(えきれい)の時死屍を捨てるものが多く、山名重氏は鎮疫を祈念し、霊験により死屍を蘇生させた。 延喜18年(918)に没した三善清行の葬送の時、その子浄蔵が佛神に祈って蘇生させたという、返り橋の名は戻り橋と呼ばれ、観音堂の信仰を集めて千人堂と称せられるようになった。慶長の頃に現地に移され、洛陽観音ニ十七番に数えられている。境内の「よなき地蔵」も著名である。
・玉蔵院 (七番町) 円山応挙の幽霊掛け軸
肺病で瀕死の遊女を描いたもので、幽霊に見えるそうです。今は行方不明らしい。
・地福寺 真言宗 日限薬師
薬師如来は今から300年前のもので、鷹司家の病気平癒のため奉納されたと伝わります。この薬師へ、穴のあいた石に五色の紐をとおし奉納し、日を限って祈願すると耳の不自由を治してくれるといわれています。
不老長寿のご利益があるといわれる境内の井戸水は、枯れたそうです。
◆目次ではこの辺りは「出水 平安京 聚楽第跡」でまとめています。
------------以上で3回にわたってお届けした出水の七不思議はお終いです。
つづいて・・七本松通りを北に見ると何やらモクモクと黒い煙が・・・
立本寺 (りゅうほんじ) (北野の鬼子母神さま)
日蓮宗本山。1321年(元亨元)日像が京都最初の道場として四条大宮に開いた妙顕寺龍華院を始まりとする。1413年(応永20)比叡山の衆徒に破却されるが立本寺として再興、その後後土御門天皇の勅願寺にもなる。以後何度か場所を変えるが、宝永の大火(1708年・宝永5)で類焼した後、現在地に移った。広大な境内を有し、明治維新前は20に及ぶ塔頭を擁し、現在でも4ヶ寺の塔頭が残る。本尊は十界曼陀羅。本堂・刹堂(鬼子母神堂)・妙見堂・客殿・鐘楼・山門(総門)は京都市指定有形文化財。西から南へ広がる庭園は1483年(天保14)から1850年(嘉永3)の間に造営されたもので、京都市の指定名勝になっている。
この日は「大国祷会」の日でした。
刹堂に祀られる日審上人には「幽霊子育て飴の伝説」が伝えられています。
東山の幽霊子育飴の話で、飴によって命を助けられた赤ん坊が成人して偉くなり、この寺の日審上人になったという話です。(◆ちょっと記事にしています)
安産・子育て守護で有名な子安鬼子母神のご開帳は毎月8日2時より。また毎年4月8日には花まつり、8月24日には多数の宝物干し展観が客殿で、11月8日にはお会式の法要がある。
本堂の日蓮上人座像には兜の御影の伝説が。(いつか調べます)
ここには島原の名妓であった吉野太夫を身請けし妻とした豪商の灰屋紹益のお墓。
戦国大名の石田三成の軍師の島左近のお墓がありました。
「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われた名将・猛将の島左近です。
・
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スッポン料理の老舗「大市」
鐘馗さんの上の屋根の庇にトンボがぶら下がっています。
店が前向きに発展するように・・・ということらしいです。
元禄年間に初代近江屋定八が創業して約300年スッポン一筋に17代続いています。
水上勉の小説「五番町夕霧楼」で有名な五番町遊郭の跡あたり。
こちらは厳めしい鐘馗さんではなくて、やはり女性です。
千本日活跡
あ~ やっと出水の七不思議が済みました。
昨日はブログ用に作った写真の2009年のを見ていてハタッと気づきました。全く同じ写真が既に作ってあるではないか!! びっくりしました。失礼しました。m(_ _)m
今日はたっぷりお届けしました。( ´艸`)プププ
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松林寺の横の説明です。拡大してお読みくださいね。
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コメント
聚楽第は伏見城築城の際に徹底的に破却されたため、地上にはほとんどその痕跡をとどめていない、ということですが、掘跡が少し残っているんですね。この辺りにかつて五層の天守閣がそびえていたとは、ちょっと想像が付きません。そんな消えてしまったかつてのランドマーク(相国寺とか六勝寺とか、二条城にも天守閣がありましたっけ)に思いをはせるのも面白いですね。松林寺の写真で門の奥のほうに写っている建物がなんとなく聚楽第ぽいです。何でしょうね、あれ。
幽霊に足が無いのは世界でも日本だけだったと思いますが、足の無い幽霊を最初に描いたのは円山応挙だと何かで読んだような気がします。写真で見たことがありますが、それとは別の絵なんでしょうか。
水上勉の小説はちょっと苦手です。『雁の寺』とか、鬱な話が多くて…。等持院の修行時代を書いたエッセイは滋味豊かでとても面白いんですけどね。
投稿: わびすけ | 2010年5月29日 (土) 08:54
いろんな不思議があるよね
それこそ不思議です♪
投稿: munixyu | 2010年5月29日 (土) 11:56
★わびすけさん こんにちは♪
堀川牛蒡って、この堀で作られていたんですって。
聚楽第の遺跡の横には説明板があります。
※今、松林寺の前の説明を記事の最後に入れておきますので見て下さいね。
松林寺の写真で門の奥のほうに写っている建物は・・・「山中油店」の工場です。まっすぐ南にありますね。
水上勉さん・・・遥か昔に祇園で1度お見かけしたことがあります。素敵な方でしたね。
私も遊郭の小説は悲しくて読めませんが、テレビドラマでしていた時には見た記憶があります。
幽霊の絵・・・どういうのでしょうね。足はお布団の中かも。
投稿: りせ | 2010年5月29日 (土) 12:31
★munixyuさん こんにちは♪
この辺りの七不思議ですが、お寺にもありますね。
清水寺の七不思議、知恩院の七不思議・・・他にもあるかも知れませんね。
世の中 不思議だらけ。
投稿: りせ | 2010年5月29日 (土) 12:43
こんばんは、りせさん。
幽霊子育て飴の話は聞いたことがあります。
スッポン料理の老舗「大市」さんは、よくテレビで紹介されてますよね。
投稿: さらそーじゅ | 2010年5月29日 (土) 19:17
★さらそーじゅさん こんばんは♪
大市さんのすっぽん料理、最近テレビで見ましたよ。
幽霊子育て飴はまだ買ったことが無いですが、お盆の頃に行くとお客さんが多いです。
投稿: りせ | 2010年5月29日 (土) 21:29